あなたは犬派ですか、猫派ですか?
私は子どもの時からの猫派で、犬は苦手な方でした。
2003年に初めて中米に行った時、ノラ犬だか飼い犬だか分からない犬が始終どこでもうろうろしているのに驚きました。
大らかなお国柄ですので、たとえ「飼い犬」だったとしても、日本のように、登録や予防接種の義務はおそらくないでしょう。
最初は「怖い」と思いましたが、そのうち中米の犬はちっとも攻撃的でないことに気づきました。
いつもおなかをすかせていて、吠えるエネルギーもなく、むしろ餌をくれないかと人間にすり寄ってきます。
ある時、ラジオによる通信教育の山奥のスクーリング会場(といっても掘っ立て小屋)で学年末試験が行われていました。
食卓に使うような丸テーブルに数人が座って問題を解いています。
その部屋に、フラッとノラ犬だか飼い犬だか分からない犬が入ってきました。
痩せていて、背中にできものがありました。
犬は静かに学生たちの足元を嗅ぎまわり、何かものほしそうです。
ひとりの学生が持参していた貧しい弁当を開けて、お惣菜を一切れ投げてやりました。
犬は嬉しそうに、でも静かにそれを食べて、さらにひとしきり地面を嗅ぎまわり、やがて来た時と同じようにフラッと出ていきました。
日本では考えられないような試験中の風景です。
さて、今回の福音に出てくる「食卓から落ちるパン屑を食べる子犬」はきっとこんな犬です。
日本の子犬だったらおそらく見向きもしないような食卓の残飯を喜ぶ子犬。
病気の子を抱えたお母さんは、「残飯でいいからお恵みをください」とイエス様に乞うのです。
こんな真剣さが、私の今までの祈りにあったでしょうか。
むしろ「こんな恵みはいらない。別の恵みが欲しい」とわがままばかり言っていたことが思い出されて、あの犬を見た日のように胸が痛くなりました。 (Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ マタイ15:21-28
イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。