1970年代に大きな話題を呼んだ有吉佐和子の小説『恍惚の人』。
認知症という言葉そのものがなかった時代、高齢者の心理にそれほど関心が払われていなかった時代に、初めて高齢者の問題を扱った小説でした。
この「恍惚」という漢字がそれぞれ「とぼける」と読まれることを知ったのは、これを書いている今です。
とぼける、惚ける、恍ける・・・
今回の聖書箇所、有名な「エマオへの道」などと呼ばれる箇所ですが、復活されたイエス様は、エルサレムからエマオへと向かう弟子たちにあらわれて、「その話は何のことですか」「どんなことですか」と、すっとぼけます。
そして弟子たちの話をすっかり聞き出してから、やおらメシアの受難と復活の栄光を語り始めるのです。
学校の用語で言い換えるなら、確認テストをしてから授業を進めるようなもの。
しかもテストと授業の間に「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」というコメントまで入っています。
イエス様はどんな顔で、どんな声でこうおっしゃったのでしょう。
私には、にこにこした顔と、あやすような声が浮かんできます。
「おばかさん、聖書をちゃんと読んでごらん」。
私たちは、イエス様に直接「授業」をしていただくことはできないけれど、祈りの中で、日常生活の中で、復活を学ぶことができます。
時は春。
自然界のすべてが芽を出し、花を咲かせています。
古い自分を脱ぎ捨てて、新しい自分になりなさい、と呼びかけられているようです。
私たちこそ、すっとぼけないで、新しい人を目指しましょう。 (Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ ルカ24:13-35
ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。