2018年2/18 若い人のための日曜日の聖書  四旬節第一主日  マルコ1:12-15

調布修道院チャペルの「荒野の誘惑」のステンドグラスの悪魔の爪

皆さんは、だれかの死に立ち会ったことがありますか?

私がまさに死にゆく瞬間を目撃したのは、私の父と、イタリア留学中にお世話になった修道会(今、私が所属している会とはまったく別の会です)の総長様の死の、二回です。最初が17歳の時、二番目は20代でした。

心がまだみずみずしいうちに死というものを経験できたのは、とてもよかったと思います。何よりも、死は穏やかで自然なものなのだと、私自身に刻み込まれました。

エンリーカ総長様の死についてお話ししたいと思います。たぶん、今の私くらいの年齢でガンにかかり、臨終の時が近づいてから病院から修道院にお移しました。修道院で最期を迎えたい、とのご希望でしたから。そして神父様をお呼びし、「病者の塗油」という儀式をしました。この儀式のとき、病人の意識がはっきりしているならば、罪を告白して神様から赦していただきます。いわゆる「懺悔」。現在は、「告解」「赦しの秘跡」「和解の秘跡」などと呼ばれます。この罪の告白は、通常、当人と神様の代理である司祭だけで行われますので、彼女のベッドを囲んでいたシスターたちはいったん病室を出ました。しばらくして病室から出てこられた神父様は、感極まって泣いていらっしゃいました。告白は秘密であるので(もし司祭がだれかの告白の内容をもらしたら、大変な罪です)、どのような内容だったかは知る由もありませんが、神様の代理人として赦しを与えた司祭が泣き、告白したご本人が非常に穏やかで落ち着いていらしたのが、印象的でした。まもなく彼女は最後の呼吸を始め、シスターたちがロザリオを唱える中、帰天されました。あたかも聖母マリアの臨終のようでした。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。

時が満ちる、という概念を理解するのは難しいですが、人間の誕生と死に似ているなあ、と思います。もちろん、現代の医学はどちらも多少コントロールできるようですが、生まれ出る赤ちゃんを胎内に押しとどめることも、死にゆく人を無理やりこの世に引き留めることもできません。

高三の担任をしたり、高三生に宗教を教える時も、よく「あなたたちは、望む望まないにかかわらず、三月にはところてん式に押し出されます」と申し渡しました。「だから有終の美を飾ろう」と言いたかったのですが、これもまさに「時が満ちた」状態。生徒たちはたいてい、「やだー。もっと高校生でいたい」と言いましたが。

イエス様はなぜ、二千年前のユダヤ地方にお生まれになり、そこで活動なさったのでしょう。なぜ、1940年代前半のアウシュビッツでなかったのでしょう。なぜ、現時点のロヒンギャ難民の間でないのでしょう。答えは、私にはわかりません。おそらく、人間の身では計り知れないこと。今回の福音箇所は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というイエス様のおことばを、心の中に繰り返し響かせ、復活祭の準備であるこの四旬節の期間を過ごしていきたいと思います。 (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ マルコ1:12-15

(そのとき、)“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

エンリーカ総長様のやさしい笑顔