巡礼初心者江戸を行く その2

 黄色いJR総武線を御茶ノ水駅で降り、赤い地下鉄丸ノ内線までの乗り換えは、少し外を歩くことになった。御茶ノ水の橋の下には、遥か江戸時代から城の外堀に巡らされた水が、今も絶えることなく留まっている。堀の名残は、私が小学2年生まで住んでいた市ヶ谷駅まで続き、小さい頃は、電車を待つ度にこの水の中に引き込まれそうな気がして、いつもホームの真ん中に立っていた。目的の茗荷谷駅に到着したのは、10時半を少し回ったころだった。近くには筑波大学、お茶の水女子大学、東京大学があり、文教地区であることを知ってはいたものの、この駅に降り立つのは人生初。何番出口から出れば予定の経路を辿れるのか、皆で案内板を見ても定かではない。とりあえず目の前の出口から出て、数メートル歩いたところ、角から大通りが見えてきた。地図解読担当者と、あれが国道254に違いないと見当をつけ歩き始めた。私たちが目指す「庚申坂」と呼ばれる細い坂道までは、かなり距離があることはわかっていたが、何だか心配になってきたころ、隣を歩く地図解読担当の青年に尋ねると、遠くに見える信号の「茗台中学校前」の標識を読み取り、「あそこ!」と指で示してくれた。ここまでくればもうこっちのものと思いきや…ビルの間の細い道を右に曲がると、「この先行き止まり」の案内。5人で思案していると、もしかして車だけ行き止まり?人間は行けるのかも…とふと思い、歩みを進めるとやっぱり。その少し先には丸の内線のガードが見え、坂下までは手すりの付いた急な長い階段が続く。坂の名前は「庚申坂」。文京区教育委員会によれば、ガードをくぐった先にある坂が「キリシタン坂」となっているが、この庚申坂の景色もめずらしいので、ここで記念写真を撮ることにした。ガードをくぐると、その先もスキーで言うなら中級クラスの坂が目前に迫ってきた。なんとも珍しい地形の先には、私たちが目指す殉教地、「キリシタン屋敷跡」があるはず。雪が降ったらどうやって登り降りするのだろうか、と心配に思うほどの坂を登りきると、あった!小さなビルの側面にぴったりくっつき、そこだけ静けさに包まれて石碑がひっそりと建っている。

1646年、当時キリシタン奉行として、徹底的にその排除に努めていた井上政重の下屋敷の中に造られたキリシタン屋敷。その役割は、捕えた信者たちを棄教させ、また世間からキリシタンを隔離し、その存在を忘れさせるためのものだった。ここに多くのキリシタンたちが次々に収監され拷問を受け、非情な死を遂げていく者、あるいは苦しみのゆえに棄教し、「転びキリシタン」としてこの屋敷内で人生を終えていく者がいた。悲しいことに、すでに長崎で転びキリシタンとなっていた元イエズス会日本副管区長(管区長代行)クリストヴァン・フェレイラは、ここで棄教を勧める役割を担わされ、彼が最初に出会ったのが、あのペトロ・カスイ・岐部神父だった。追放の地マカオからインドのゴアに渡り、一人歩いてローマに向かい叙階され、再び迫害下にある日本に戻った気骨ある人物。フェレイラの勧めには決して応じず、信仰を貫き通し殉教していった。収監されたキリシタンの中には、遠藤周作の小説『沈黙』のモデルとなったキアラ神父もいた。彼は晩年役人から強いられて『天主教大意』3巻を記し、転んだことを後悔し、心の奥底ではキリスト教への回帰を願っていたが、叶えられることなく、1685年40年間の屋敷内生活を閉じた。月日と共に、キリシタン弾圧もそれなりの成果を収めたように見え、この屋敷もその役割を終えるかのように、静かな佇まいとなっていった。

私たち5人は、細い道路に面したキリシタン屋敷跡の石碑の前に並び、ヨハネ12章24~26「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る…」を祈り、聖歌≪涙の内に種まく人は≫を小さな声で歌った。今は当時の面影もない密集した住宅地の一角で、ささやかに祈る私たちの声は、天の父の深い愛を注がれながらも、「殉教」と「転び」の明暗に名を連ねたあの信者たちの耳に届いたでしょうか。果たしてその時代に生きたとしたら、私はどうだったのかと心が痛くなった。  (Sr.高橋香久子)