「先生とこんなに親しく話せる日が来るなんて思わなかった」。
先日、修道院を訪ねて来た桜の聖母学院の二人の卒業生に言われました。
彼女たちと別れたのは、3年前のこと。彼女たちは高2になったばかりでした。
私は高1の最初は結構厳しくし、段々手綱(ごめんなさい!)を緩めていくタイプでしたから、厳しい私の印象しかなかったのでしょう。それにしてもよく訪ねてくれました。
さてこの記事をFacebookに載せたら、思いがけない人から反応がありました。
明治学園の卒業生で、20年以上会っていない人が、桜の聖母学院の若い卒業生の「友だち」になっていて、「いいね」を付けているのです。かたや福島出身で今は東京、かたや北九州出身で今は岡山とのこと。年齢も20歳くらい違うはず。特に明治学園の卒業生Cさんは、たしか中2から高1まで3年間宗教を教えたけれど、とても知的な生徒で、宗教の授業も宗教の教師も歯牙にもかけない、というタイプでした。この二人、一体どこで繋がったのかしら。
繋ぎ目となったのは、3.11でした。被災者とボランティアとして。
その詳細はさておき、私は神様のやり方、種がいつか芽を出し、花を咲かせ、実を結ぶ、でも「どうしてそうなるのか、その人は知らない」を実感する機会となりました。私はとにかく種を蒔きました。からし種よりももっと小さな種でした。どこに(だれに)いつどんな芽が出るかわからないままに。そして二つの種蒔きが私のまったく知らないところで結びついたのです。
イエス様はおっしゃいます。「神の国って、こんなものだよ」。だから私たちは、種を蒔いて、あとは祈って神様にお任せすればよいのです。神様が、すべてをうまく取り計らってくださるのですから。
(Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ マルコ4:26-34
(そのとき、イエスは人々に言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。