7/8 若い人のための日曜日の聖書  年間第14主日 マルコ 6:1-6

作曲家と同じ名前の画家ハインリッヒ・ホフマンのキリスト

家でのあなたと外でのあなたは、同じあなたですか?

多くの人は、外と内、あるいはONOFFを使い分けているのではないでしょうか。

または逆のタイプの人もいます。

私のむかーしの知り合いに、いつもマニッシュなファッションで、言葉遣いも男の子、という人がいました。ところが実際は邦楽のさる家元のお嬢様。お家に帰ると、「お母様、わたくしがいたしますわ」と言葉遣いから立ち居振る舞いまで豹変するとのことでした。

彼女にとって、どちらがONで、どちらがOFFだったのでしょうか。思い出すと、あらためて気になります。

さて、今回の福音箇所が私はけっこう気に入っています。イエス様が、まったく「ただの人」にしか見えないほど、私たちに同化してくださっている様子がうかがえるからです。

とは言え、30の年前の誕生に狂喜したベトレヘムの羊飼いたちは、どこに行ってしまったのでしょう。十数年前に、エルサレムの神殿で12歳のイエス様の賢い受け答えに驚いた人々は? …考えてみると、どちらもナザレ村の人ではないですね。

ナザレのイエス様は、フツーの子どもだったのかしら。

ともかく、ナザレ村の人々は、一人前になられたイエス様を、「でき婚で生まれた、ただの大工で、マリア小母ちゃんの息子で、たくさんの従兄弟たちと暮らしている」、「知恵ある言葉を語ったり、奇跡を行うなんてヘンだよ」と思っていたのです。

そこまで人間になってくださった神様って、すごくないですか?

私は、「人となられた神様」こそ、キリスト教最大の奇跡であり神秘だと思います。

神様が人となられたのですから、私たちも神様に近づけるのです。

まったく人間的なレベルで、バカなことを言ったり、愚かな行動をしたりする私を愛してくださる神様、このままの私があなたに近づける、ということを信じさせてください。

そして、私たちにおいて、あなたが自由に奇跡を行い続けられますように。

≪聖書箇所≫ マルコ6:1-6

 (そのとき、)イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。

 それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。