9/16 若い人のための日曜日の聖書  年間第24主日 マルコ8:27-35

マリア様の近くに立てられた緑の十字架「安全旗」

白地に緑の十字架!

何度かお分かちしているように、私の住む修道院は耐震のためただ今建築中です。昨日、正門を入って一番建築現場に近いところに旗と吹き流しが建ちました。

一番上が白地に緑の十字架、その下に建築会社さんの社旗。

緑の十字架は、「安全第一」を掲げる安全旗と呼ばれるのだそうです。しかも、この安全旗は日本で大正時代に発祥したとか。世界には「赤十字」の十字架を避けて「赤新月」や「赤獅子太陽」を使って赤十字の活動をしている国もある中で、明治時代にすんなり赤い「十字架」が定着し、安全旗に緑の「十字架」がもちいられる日本は、私たちキリスト者にとって「よい国」というべきか、宗教的に節操がないと言うべきか、迷ってしまいます。

さて、今回の福音箇所は、三つの要素から成り立っています。

「あなたにとって私はだれか」というイエス様の問い。ペトロの答えは「メシア(救い主)」でした。

「メシアとはどういうものか」というイエス様の教え。

「そのメシアに従うには自分の十字架を背負わなければならない」というイエス様のお勧め。

「十字架を背負う」という聖句は、様々に解釈されてきました。祈りに基づいた解釈なら、どれが正解でどれは間違い、ということはありません。私は、今回こんなふうに祈りました。

皆さんご存知のように、福音書のこの時点では、十字架はたんなる「死刑の道具」にすぎません。これがキリスト教のシンボルになったのは、3世紀後です。だから、イエス様が現代の日本の人なら、「絞首刑用の縄を首にかけて、私に従いなさい」と仰ったかもしれません。つまり、メシアであるイエス様に従うのは、命がけであると。

教師であったころの私は、「命がけ」でした。神様から与えられた生徒たちを、一歩でも半歩でも成長させたい、という熱い思いがありました。この思いは、時によっては、また生徒によっては迷惑な思いだったことでしょう。一人で空回りしている、と感じることもありました。

今はどうでしょう。首には寝る時を除いて十字架を下げ、十字架のある聖堂で十字架のしるしをして祈る毎日。緑の十字架が一番上に翻っていることを嬉しいと感じる私。

でも教師であったころの熱い思いは残念ながらありません。むしろ十字架に慣れきっている私。命がけで私を愛してくださったイエス様のしるしである十字架を、「命がけ」で受け取っていない私を発見しました。

「ごめんなさい、イエス様。生徒がいるから命がけになれる、のではなく、どのような状況にあっても、あなたが私を命がけで愛してくださったから、そのあなたを命がけで愛したいのです。そのことを、十字架を見るたびに、思い出させてください」。

≪聖書箇所≫ マルコ 8:27-35

(そのとき、)イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。

それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」