「先生、どうして中学生はポニーテールにしてはいけんの?」
かつて教えていたM学園で、答えに窮した生徒からの質問です。
今はどうか知りませんが、M学園ではどうしてか、中学生の長い髪は「二つに分けて結ぶ」と決められていて、ひとつ結びはだめでした。高校生はどちらもOK。もちろん、制服で長い髪をばらすのは中高ともにご法度。
その他の校則はたいてい、生徒を何らかの危険から守る、という観点からできたものでしたから、「どうして」と質問されても諄々と説いて納得させることができました。しかし、「中学生だけのひとつ結び禁止」は不可解な規則でした。
「一番おしゃれしたい時期なのに、どうして先生たちは分かってくれないの?」と叫んだ生徒もいました。「一番おしゃれしたい時期」かどうかは、もっと長く生きてみないと分からないはず、やれやれ、と思いました。
規則、というのは不思議なものです。気にならない人にとっては「守る」という意識なしに守れてしまいますが、ある生徒にとってある規則は、まさにその生徒の全人格の否定にまでつながります。だから守れないし、守りたくない。さらに守っていない私をアピールしたい…思春期は複雑です。
さて、今回の福音箇所に登場する「ある人」は、モーセの出エジプト以来大切にされてきた十戒を、(おそらく)あまり考えることなく守ってきた人でした。「先生、そういうことはみな、子どもの時から守ってきました」と、胸を張って答える「ドヤ顔」が目に浮かびます。疑り深い私はまずここで「ホントかな?」と思ってしまいます。その彼にイエス様は畳みかけるように「それだけじゃ、足りないよ」とおっしゃいます。そして、持っている物を売り払って貧しい人を助けてごらん、とおっしゃいます。「規則だけ守っても意味がない。その根本に愛がなければ」…。
もちろん十戒の根本に愛がないわけではありません。唯一の神を神として敬いながら生きる人なら、その人はかならず隣人を大切にするでしょう。神様だけを大切にするなどということはありえないからです。ただし、この第一戒を表面的に解釈して「神を敬い、人を大切にしない」生き方をして、「私は十戒を守っている」と考えている人もいます。考え違いもいいところです。
これは、キリスト者である私にも当てはまることです。ミサにさえ与ればいいとか、祈っているのだから大丈夫だとか、あげくの果てはシスターだから救われるはずだとか…。救われるかどうかは神様のお決めになることですが、自分で自分を規則の中に閉じ込めたら終わりです。愛はもっともっと自由なものです。
神様、どうかあなたの自由な愛をもっと私に教えてください。そして、その愛を生きられる者にしてください。
≪聖書箇所≫ マルコ 10:17-30
(そのとき、)イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子どもの時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」