11/11 若い人のための日曜日の聖書  年間第32主日 マルコ 12:38-44

ラヴェンナ、サンタポリナーレ聖堂のモザイク画「やもめの献金」

私の母は、1983年の復活徹夜祭で洗礼を受けました。父を看取って10年ほど経っていました。私はその前の年に受洗していて、その洗礼式に与ったことがきっかけとなりました。

その日、母は「私の生涯の最良の日だわ」と言いました。娘としては、「あら、結婚した日より、私を出産した日より今日の方がいいのかしら」と、ちょっと不思議で複雑な思いでしたが、同じキリスト者としてはよく理解できます。

そして、私が修道院に入ると決まった時、こう言いました。「お前は私のレプトン銅貨二枚で、しかもそれよりもっとずっと価値があるのだから」。

痛い言葉でした。しかも母は、今回の福音に出てくるやもめと違って、自分で決心して「生活費」というか母の将来につながる「私」を捧げたわけではありません。「生活費」の方が勝手にイエス様の懐に飛び込んでしまったわけです。その時はまだ母も若く仕事もしていましたから気付きませんでしたが、今改めて振り返ってみると、母の捧げたものの方が、私がお捧げしたものよりよほど大きかった気がします。

いずれにせよ、神様はそのことを私たち以上にご存知です。そして、弱い立場にありながら神を信じる人を慈しんでくださいます。

神様、どうか、私の捧げものをせめて母の捧げたものに相応しいものにしてください。そして、私が自分自身をすでに捧げていることを忘れないように助けてください。

≪聖書箇所≫ マルコ 12:38-44

(そのとき、)イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」