今の若い人はたいへんだなあ、と時々思うことがあります。
携帯もスマホもなかった私の青春時代。恋人や気にかかる人からの電話は、ひたすら家にいて待つしかありませんでした。
庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』(1969年の芥川賞受賞作品)の書き出しは、鮮烈な印象でした。
ぼくは時々、世界中の電話という電話は、みんな母親という女性たちのお膝の上かなんかにのっているのじゃないかと思うことがある。特に女友達にかける時なんかがそうで、どういうわけか、必ず「ママ」が出てくるのだ。
男女を入れ替えても状況は同じ。だから期待のときめきで甘い苦しみを味わいながら待つしかない。
今だったら、いつでも電話が本人に繋がる。でも、どこで何している最中? だれと一緒? 今かけて迷惑じゃないかしら? 「今、電車の中」って切れちゃったけど本当かな?
私だったら、「期待のときめき」でなく「疑いと迷いのドキドキ」になってしまいそうです。だから、携帯のない時代に青春しておいてよかったかな、と。さらに言えば留守電も着信拒否もない時代で。
さて、待ち焦がれた待降節がやっとめぐって来ました。なぜ「やっと」かというと、世の中の方が教会よりずっと早く、待降節をすっとばしてクリスマス(クリスマス商戦と言った方がよいか)に突入しているからです。
10月31日にハロウィーンが済んだらクリスマス、クリスマスが25日に終わったらお正月、そして松の内が過ぎたらバレンタイン…このローテーションなんとかならないかしら、と思う一方で、ローテーションだからこそのよさもあります。
イエス様の降誕は、歴史的には一回きりの出来事ですが、私たちは教会の暦を繰り返すことで、これを自分の中で深めていくのです。学校の待降節やクリスマスの行事も同じ。毎年同じことを繰り返しながら、少しづつ、少しづつ深めていくのです。
そういえば以前、明治学園で、「文化祭バザーも10回を超して飽きた」と言った高校生がいました。何にでも真面目に取り組む優等生でしたが。
でも、待降節やクリスマス式典に飽きたという声は、幸いなことに聞いたことがありません。文化祭バザーも意義深い行事ですが、やはり宗教行事には特別な繰り返しの妙があるのでしょう。
待降節の最初の日曜日の朗読は、前の週と同じく「世の終わり」に関する部分です。それでもそこには、力強いメッセージがあります。「しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」。大切なのは「世の終わり」そのものでなく、その時にイエス様の前に立って「私はどのように生きてきたのか」を報告する方です。
主よ、その時、あなたを少しでも喜ばせることができるように、私が世に対して覚醒していられるよう、助けてください。 (Sr.斉藤雅代)
今年も変わりなく執り行われたSS学院の待降節。
≪聖書箇所≫ ルカ 21:25-28、34-36
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。
放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」