12/9 若い人のための日曜日の聖書  待降節第2主日 ルカ 3:1-6

調布修道院の待降節の輪

クリスマス? クルシミマス?

中高の教師だった頃、クリスマスの前は本当に忙しくて大変でした。

二学期の期末試験の作成と実施、採点、成績の算出、さらに担任であれば通知表や保護者との面談の準備。そこに、クリスマス式典という、宗教行事の中でも規模が大きく生徒の期待度も高い行事の立案から実施が加わり、その上に、クラスの生徒や部活の生徒には何か本当のクリスマスらしいことをさせたいし、してあげたい…まさに体がいくつあっても足りない、という思いでした。

それに比べたら今はずっとましなのですが、それでもクリスマスの直前にやっと解体工事が終わろうとしている修道院の起工式が行われるので、やはり何かと忙しいです。

楽をするために修道院に入ったのではなく、神様のために働くために修道生活を送っているのですし、クリスマスとは私たちシスター(キリストの花嫁、いくつになっても!)にとっては、全世界が夫の誕生日を祝ってくれる機会ですから、忙しくて当たり前と言えば当たり前。でも、体をくるくると動かしながらも、本質、というか待降節を待降節らしく過ごすことは忘れたくないなあと、しみじみ思っています。

待降節第2主日は、イエス様の親戚のヨハネの登場です。砂漠にこもって神の国の完成を待ち望んでいたヨハネは、人々がイエス様に出会いやすい状態になることを願って、罪の赦しを得させる洗礼を実施します。

罪、と聞くと「私には関係ない」「私、そこそこいい人だもの」という人が多いのでは?

でも、聖書の中で罪を表すギリシャ語「ハマルティア」はもともと「的はずれ」という意味です。神様という「的」にはまっていないことが聖書の言わんとする「罪」です。

神様がこんなに「私」をかわいがってくださっているのに、私自身が自分を過小・過大評価したり、「私なんてだめだ」と思い込んだりしていたら、どんなに「よい人」であっても自分に対して「罪を犯している」ことになります。

祈ろうとして、別のことばかり考えていたら、やはり的外れです。

他者に対してどんなに親切を尽くそうと、「自分がいい人になること」や「いい人と思われること」が目的だったら、やはり的はずれです。

とすれば、的はずれにならないためにできることは、ともかく的である神様を見つめること、そして、自分をよく知ること、つまり自分の考えや行動が的に向っているかどうかを客観的に分析することです。

もし、方向性は正しくても、力がなくて的まで届かなかったら? その時は、きっと聖霊の風が私の矢を後押ししてくださる、と私は信じています。 (Sr.斉藤雅代)

≪聖書箇所≫ ルカ 3:1-6

皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」