12/16 若い人のための日曜日の聖書  待降節第3主日 ルカ 3:1-6

待降節第3主日と四旬節第4主日の年2回しか使えない薔薇色の祭服。明日は残念なことに修道院でミサがないので、出番なしです。

何度も書いていますが、今、私の住む修道院は建築前の解体の真っ最中。

先日、重機の腕の先に付ける物のことを、attachment と呼ぶのだと知って、ふーん、と思いました。私の中では、attachment と言えば「メールの添付」がすぐ頭に浮かぶからです。もちろん元々の意味は「付属品」。法律用語では、なぜか「差押え」のことをattachmentと言うのだそうです。

いずれも業界用語。


同じように修道院にもいくつかの特別な言い回しがあります。そのひとつが「何々させていただきました」という言い方。たとえば「研修に出させていただいて、帰りに○○美術館にも寄らせていただいて有難うございました」などと。たとえ自分で選んで参加した研修であっても、言い回しとしては「させていただいて」となります。

 

私は修道院に入った頃、いったいどこに自主性があるのかと、この言い回しが連発されると嫌な気がしていました。謙遜なあり方を言葉にするとこうなるのでしょうが。

 

そして、修道院に入るまで、謙遜、ということがキリスト者にとってそんなに大切なもの(徳)とも思っていませんでした。また多くの場合、謙遜さに、何か鼻持ちならない偽善のようなものを感じていました。

 

今回の聖書箇所は、洗礼者聖ヨハネと、彼の周りに集まった人々のまさに謙遜な姿が描かれています。

神様の方に向き直る「回心」を呼びかけたヨハネの元に人々が集まってきます。皆、ヨハネの言葉にはっとして、自分のそれまでの生き方に疑問を抱いた人たちでしょう。でなければ、わざわざ荒れ野まで出かけて行ったりしません。

 

「あの、今までテキトーに生きてきたのですけど、どうしたらいいですか?

「時々、権威を笠に着てうまいことやっているんですけど、やっぱりまずいですよね」

ヨハネはこの人たちに、逆立ちしてもできないことではなく「心がけ次第でできること」を要求します。

「不必要なものは、必要としている人にあげよう」

「規則どおりにしようよ」と。

このように教えるヨハネの姿に、人々は待ち望んでいたメシア(救い主)とはこの人のことではないかと思い始めます。それに対してヨハネは、「その方に比べれば、私は奴隷以下、その方の履物の紐を解く値打ちもない。私は単にその方が現れる前に、準備として洗礼を授けさせていただいているだけ」と答えます。

「回心」―キリスト教では心を改める「改心」でなく、神様の方に向き直る「回心」を使うことが多いです。

ある人はこれを「まわれ、右」でなくて、「まわれ、神」だと言いました。よい表現だと思います。そして、「まわれ、神」をした人は、必ず謙遜な神様に出会い、自分も謙遜になっていく、そんな風に待降節を深められたらいいなあと思っています。神様、どうかそうさせてください。

≪聖書箇所≫ ルカ 3:10-18

(そのとき、群衆はヨハネに、)「わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。