1/13 若い人のための日曜日の聖書  主の洗礼の主日 ルカ3:15-16, 21-22

調布修道院の解体された主聖堂のステンドグラス「イエスの洗礼」

街中はすっかりお正月気分も取れて…どころか、すでにバレンタイン気分!きっと聖ヴァレンティヌスが「早すぎるよ!まだクリスマスなのに…」と天国で嘆いていらっしゃることでしょう。

さて、カトリック教会の暦では、この「主の洗礼」の日をもってクリスマスが終了します。曜日の関係で年によって異なりますが、今年は1225日から20日間のクリスマスシーズンでした。

クリスマスシーズンの最後を飾るのがイエス様の洗礼。いよいよイエス様が大人として、宗教者として活動し始めるシーンです。

このイエス様の洗礼ほど、以前から私にとって不思議なシーンはありませんでした。罪のない方であるイエス様がなぜ「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼」(マルコ1:4)を受けなければならなかったのか。

このことを祈っていて、ふと次の聖句が浮かびました。

「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する」(ルカ22:37)

だれにとっても誤解されるのは辛いことです。時々起こってしまう「冤罪」がその人から時間や未来や、その他さまざまなものを奪うことでどんなにその人を苦しめるか、想像にあまりあります。

クリスマスとは、イエス様が人となられたことを祝うお祝いですが、同時にイエス様に対する誤解が生じ始めた時でもあります。

また、イエス様は神様と共に豊かだったのに貧しくなられた、と表現されます。しかしそれは、旅の途中に家畜小屋で生まれたからではありません。

イエス様は、私たちと同じように罪人となるため、そして罪人として十字架につけられるために、言い換えれば「誤解されて殺される」ために人となってくださったのです。

だから、イエス様は貧しくなってくださった、と言えるのです。その生き方を端的に表すのが、この洗礼のシーンです。そして貧しくなったイエス様に、父である神様はおっしゃるのです。「お前こそ、私の愛する子ども。私の思いや計画を十分に知っている子ども」。

神様、小さな誤解にも耐えられずに言い訳し始める私を赦してください。誤解や中傷の中で出産されたマリア様、私に忍耐力をお与えください。 (Sr.斉藤雅代)

≪聖書箇所≫ ルカ3:15-16, 21-22

(そのとき、)民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

その取り外しの瞬間