1/13 若い人のための日曜日の聖書  年間第2主日 ヨハネ2:1-11

昨秋招かれた披露宴の幸せそうな乾杯シーン

結婚披露宴でぶどう酒が足りなくなった!そりゃ当然です。「大食漢で大酒飲み」と常日頃から非難されていたイエスが郎党である弟子たち(おそらくそろいもそろって大食漢で大酒飲み)を引き連れて来ちゃったんですから。「あいつらのせいで、酒樽が底をつきそうだ」。そんな陰口を耳にしたマリア様はそっとイエス様に近寄ります。「ぶどう酒がなくなりました。あなた方のせいですよ。何とかしてください」。

こんなユーモラスなシーンが私の祈りの中で展開されました。清廉潔白なイエス像を抱く方々には不謹慎と思われるかもしれませんね。

イエス様の最初の奇跡は、婚宴という喜びの中で、どんな場合であってもイエス様のあらさがしをしようとする人々(これは私の祈りの中に現れただけで、聖書のこの箇所には書かれていません。でも、宴会というと、こんな人がいたことは別の箇所に出てきますね)と、愛する息子に最大の信頼を寄せるマリア様の間で起こりました。

マリア様のイエス様への信頼は圧巻です。「ぶどう酒がなくなった原因は自分たちではないし、第一、今はまだ奇跡を行って私が神の子であると公にする時ではないです」と言うイエスの言葉を堂々と気にかけず、「この人の言うとおりにすれば万事うまくいきますよ」と召し使いたちに指示を出すのですから。「マリア様も立派に『おばさん』してる」と感心してしまいます。

昔、「オバタリアン」という言葉が流行しました。1989年の流行語大賞で、若い人からしたら、無神経で羞恥心がないく図々しい中年女性を意味しました。中年女性だけでなく若い人にもそのような特徴をもつ人はいますし、ある程度の年齢になって羞恥心なく貫けることが出てくる、というのも自然な気がします。だから、マリア様が息子の言葉を堂々と無視したことにもうなづけます。そして、本当に、「この人の言うとおり」にしておめでたい婚宴が無事に進行したのですから。

「お母さんにはかなわないな」というイエス様の声が聞こえてくるような気がします。

マリア様、私も年齢的には立派な「おばさん」もしかしたら「おばあさん」です。あなたのように、人を喜ばせるために「おばさん」が貫けるよう、神様に執り成してくださいね。まだまだ、羞恥心を抱かなくてよいところに抱き、自分のために図々しくなっている私ですから。 (Sr.斉藤雅代)

≪聖書箇所≫ ヨハネ2:1-11

(そのとき、)三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。