2/10 若い人のための日曜日の聖書  年間第5主日 ルカ 5:1-11 

古代、キリスト教の象徴として使われた魚のモチーフ。魚を意味するギリシア語が、「イエス・キリスト、神の子、救い主」の頭文字からできていることから。復活されたイエス様が魚を食べたり、弟子たちがガリラヤ湖の漁師だったことをも偲ばせるモチーフです。この調布修道院小聖堂の祭壇の装飾は、私たちの友人、青木さんが作ってくださいました。

あなたは水辺に来られた

賢い者や富める者を探すのではなく、ただ私があなたに従うことだけを求められた

主よ、あなたは私の目を見つめて、微笑みながら私の名を呼んだ

浜辺に舟を捨てて、あなたと共に別の海を探そう

 

私の大好きな聖歌『主は水辺に立った』の原曲『人間の漁師』のスペイン語の歌詞を訳してみました。日本語はシラブル数の多い言語ですので、しばしば外国語の歌詞の意味やニュアンス全体を訳詞に入れ込むことができません。この聖歌も残念な例。日本語では「主は水辺に立った。私に声をかけた」と続きますが、、私は原詩の「私の名を呼んだ」というところが好きです。しかも、私がイエス様に従うことだけを求めて、私の名を呼んでくださるというのです。

ここ数日今回の聖書箇所を祈りながら、常にこの聖歌が心の中にBGMのように流れていました。そしてイエス様が私の名を呼んでくださるその声を聴いていました。私の胸を掻き立てる声であると同時に深く静まらせてもくださる声です。

「雅代、他の声に耳を貸さず、私の声だけを聴いて、ただ私にだけ付いてきてほしい」と。

司祭や修道者でなく、普通の信徒の祈りを深めるために書かれた祈りのプログラム『霊操』の中で、ロヨラの聖イグナチオは、このイエス様のプロポーズを、次のように表現しています。

私と共に来たい人は、私と同じ食事、そして同じ飲み物、衣服等で満足しなければならない。又、昼は私と共に働き、夜は共に寝ずの番等をして働かなければならない」(霊操93、門脇佳吉訳、岩波文庫)

そしてイグナチオは続けます。「もし誰かこのような王の頼みを聞かない者があれば、皆から責められ、卑怯な騎士とみなされるのは至極当然ではなかろうか」(94)

騎士道精神華やかなりし時代の子イグナチオは、こんな風にイエス様と私たちの関係を王様と騎士にたとえています。

イエス様、ペトロの気持ちはわかりますが、私は彼のように謙遜ではないから、「私から離れてください」なんてとても言えません。あなたのプロポーズを受ける以外に何ができるでしょう。

とはいえ、しっかりと受け止めるためには、あなたの助けが必要です。あなたはご存知です、私がしばしば違う声に心を惑わされるのを。

神様のプロポーズを、それだけを、生涯をかけてしっかりと受け止めたマリア様、どうか弱い私を助けてください。

 (Sr.斉藤雅代)

≪聖書箇所≫ ルカ 5:1-11

イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

昨夏訪れたカトリック新発田教会の魚の付いた十字架