2/3 若い人のための日曜日の聖書  年間第4主日 ルカ 4:21-30

イタリアの画家ジョットの神殿に捧げられるイエス

この原稿を書いている今日、2月2日は、生後40日目に神殿にお宮参りに連れていかれ、神殿に奉献されたイエス様をお祝いする日です。今朝のミサで、神父様は次のようにおっしゃいました。

「イエス様の奉献に合わせて、私たちも自分の一番よいものを奉献しましょう」。

そして、ちょっと口ごもりながら加えました。「一番よいものとは、私たち自身です」。

それを耳にした瞬間、私は涙があふれそうになりました。

神父様は、「一番よいもの」=「私たち自身」とおっしゃったのです。

私がいただいている健康とか、タレントとか、忠実に祈ることなどとはおっしゃらず、ストレートに「私たち自身」、私たちのすべて、とおっしゃったのです。罪深かろうが、おかしな性格だろうが、「私たちのすべて」を神様にお捧げする…

そのためには、自分をよく知ったうえで、自分を受け入れていなくてはなりません。そうであれば、他者のこともよく分かり、世のため人のために神様に使っていただけます。

今回のイエス様は、自分のこと、他者のことをよく知っていらっしゃるイエス様です。神様だから当たり前、の一言で片づけずに見習いたいです。

「この人はヨセフの子ではないか」。そう、大工ヨセフの子、何の変哲もないように見える人間の子。

この言葉には様々な思いが凝縮されています。

単純な驚き、この人こそメシアかもしれないという熱狂の予感、奇跡がみられるのではないかという期待。一方で、ヨセフの子が特別であるはずがないという疑惑、奇跡を起こせるものなら起こしてみろという開き直り…。

様々な思いを感じ取って、イエス様ははっきり言います。「あなたちはイスラエル人でしょう、神様から選ばれた民族でしょう。でも、エリヤが遣わされたのは異教のはびこるシドン地方のサレプタの女性、エリシャが癒したのもイスラエル人ではなく異教のシリア人ナアマン。イエラエル人として生まれたことに安住せず、神様の恵みにもっと心を開いてごらん」。

人々からの回答は…「憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」。

イエス様の受難の始まりは、こんなに福音書の冒頭に近いところだった、と驚かされるばかりです。

キリスト者であるとは、シスターであるとは、このイエス様に従って生きることです。1月が終わり、もう年頭でもないですが、あらためてみを引き締めて寒風の中に立ちたいです。私のすべてをお捧げして。 (Sr.斉藤雅代)

≪聖書箇所≫ ルカ 4:21-30

(そのとき、ナザレの会堂で預言者イザヤの書を読まれた)イエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルにはらい病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。