3/31 若い人のための日曜日の聖書  四旬節第4主日 ルカ 15:1-3, 11-32

放蕩息子を扱った私の好きな本2冊

有名な「放蕩息子」のお話です。以前教えていた明治学園では、中学2年生の宗教でこの箇所を扱うことになっていました。女子クラスの生徒たちの反応は、もっぱら「弟に甘い父」への怒りでした。男子クラスは、まず「下の息子」という言葉に大きく反応! 敏感なお年頃なのです。それから、弟と父への怒り。男女共に、真面目で正義感の強い「兄」タイプが多かったのでしょう。

プロテスタントの牧師でティモシー・ケラーという方が『放蕩する神The Prodigal God』という本を書いています。日本語の「放蕩」でなく英語のprodigalには、「むこうみずに浪費する」という意味があり、ケラーは、湯水のごとくお金を使ってしまった弟だけでなく、子どもの言うままに財産を分けてやり、放蕩の果てに帰ってきた息子を何ひとつ咎めることなく迎え入れた父もprodigalだ、と考えています。またケラーは、この物語を「放蕩息子」のたとえでなく、「失われた二人の息子」のたとえとするべきだとも述べています。Prodigalの方向性を誤ってしまった弟と、いかなる場合もprodigalになれない兄は、両方とも父にとって「いなくなってしまった者」だというのです。

私は、「寛大なお父さん」の物語でもいいかなと思います。父が寛大なのは、弟に対してだけではありません。

弟の帰還を祝う宴会に加わろうとしない兄に対して、父はわざわざ宴会の座を立って出てきます。

「どうしたんだ、お前も中に入って一緒に祝おうよ」と。

その父に向かって兄は弟のことを「あなたのあの息子」、つまり自分と関わりのない者、と表現します。父はやはりとがめません。

「お前はいつも私と一緒だったのに、私のものはすべてお前のものなのに、一度も『これが欲しい』とは言わなかったではないか。あいつは、いなくなって戻ってきた。だから嬉しいんだよ。お前も、私のところに戻っておいで」。

私には、父の言葉がそんなふうに聞こえてきます。

兄はどうしたのか、書いていません。意地を張って、家の外で煮えくり返る思いに引きずりまわされるままだったのか。

それとも、家に入ることで、「父の元に帰った」のか。

私…ひょっとしたら前者かもしれません。神様、どうぞしばしば「自分の思いに引きずりまわされる私」を解放してください。 (Sr.斉藤雅代)

≪聖書箇所≫ ルカ 15:1-3, 11-32

(そのとき、)徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。
「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

レンブラントの描く「放蕩息子」を迎える父の手