4/21 若い人のための日曜日の聖書  復活の主日 ルカ 24:1-12

けなげに咲いた切り花の桜

今年の春は、いくつかの理由から、珍しくゆっくりと桜を堪能することができました。いくつかの理由というのは、まず復活祭が遅かったこと。そして、学校という3~4月にかけてめちゃくちゃに忙しいところに関係していなかったこと。修道院の工事のために始終敷地内をながめたり歩いたりしていること。有難いことに、敷地内には、早咲きの寒緋桜と河津桜、そめいよしの、枝垂桜、遅咲きの八重桜と幾種類かの木があること。さらに、3月末の気温が比較的低くて、開花から散るまでの時間が長かったことも、「ゆっくり堪能」できた理由のひとつです。

こんなに桜の花のことが気にかかるのは、日本に生まれ育ったからでしょうか。

さて、春がまだ遠かった1月11日に、私たちは工事の方にお願いして敷地内の桜の木を1本切りました。この木は、正門から取り壊した修道院の玄関に通じる道沿いにあって、昨年の7月に大型ダンプがゆっくり徐行しながら走ったにもかかわらず、車体が枝先にあたっただけで、三分の一くらいが割けるように折れてしまいました。植木屋さんに見ていただいたところ、中がだめになっているということで、年明けに伐採したのですが、ある姉妹が小枝を花瓶にさしておいたら、2月半ばに可憐な花を咲かせ始めました。そして・・・切り倒された根っこの方は、すでにたくましく若芽を茂らせています。この根っこも残念ながら建物の完成後に掘り出さなければならないのですが、そんなことも知らずに盛んに伸びています。切り花にされてしまったことを知らない花も、命の短いことを知らないひこばえも、「今」を一所懸命生きています。

キリストの復活の場面は、福音書ごとに特徴がありますが、共通しているのは、女性たちの方が先にイエス様のお墓を訪れ、そこで「復活の証拠」に遭遇していることです。12使徒をはじめとする男性たちは行動において彼女たちに遅れをとり、なおかつ彼女たちの証言をなかなか信じません。

これが、カトリック教会の中で、司祭とブラザー(男性修道者)を合わせたより、シスターの方が数が多い理由だ、と言ったら大げさすぎるでしょうか。

どのような非常事態のさなかにあっても、まず「今」取るべき行動を起こし、そして信じた女性たちにならって、私もたくましく現実的な信仰を自分の内でもっと育みたい、と切に願います。たとえ「たわごと」と言われようと。「キリストがわたしを遣わされたのは、…福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」(1コリント1:17)。  (Sr.斉藤雅代)

≪聖書箇所≫ ルカ 24:1-12

週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

桜の木の伐採

たくましいひこばえ