「ねえ、二千万円ないと安心できないんですって」。90歳を越え、様々なことが少しずつ分からなくなってきている母が、このところ繰り返し言います。
ったく、金融庁ったら、母の幸せな老後を、お金の心配なんかで台無しにしないでよ!
公的機関のこうした発言の重さと、母のように情報が入って来にくい老人にまでこのニュースが伝わっていることの恐ろしさを感じます。
さて、今回の聖書箇所の「ある金持ち」の行動の、どこが問題なのでしょう。
彼の行動は何ひとつ間違ってはいないと思うのです。
収穫が多かったら、倉を建て替えた。これは、収入が多ければ貯蓄をしたり投資を考えたりする私たちと同じです。収入のすべてを、貧しい人に施さなければならない、というわけでもないでしょう。大きな倉がいっぱいになったのを見て、「ああこれで一安心」と思ったらいけないのでしょうか。倹約して貯蓄や投資で二千万円貯まったら、とりあえず一安心ですよね。
たとえこの金持ちが、その晩までの寿命だったとしても、安心して死んで行けるのだったら、それはそれでいいではないですか。
そう考えると、この金持ちの行動はひとつも悪くない、という結論になります。
でも、イエス様は彼を「愚か者」と評します。つまり、イエス様のお考えになっている生き方はまったく次元が違うのです。当時の人は実際、宗教家に裁判官や調停人を依頼したのだそうですが、イエス様は自分はそのような働きはしない、とはっきり仰るのです。イエス様は、弟子たちを宣教の旅に遣わすのにお金も着替えも持たせず(ルカ9:3)、「尽きることのない富を天に積みなさい」 (ルカ12:33) とおっしゃる方です。
キリスト者とは、このイエス様の弟子になることを約束した人であり、さらに修道者とは、このイエス様と共に生きることを望み、イエス様からも望まれているのです。
現代の特に発展した社会の修道会に、シスターになろう、という人が少ないのは、イエス様と共に生きる人の集団であるはずの修道会でありながら、あまりにも貨幣経済に巻き込まれているせいかもしれません。もちろん、貨幣経済から抜け出すことは不可能でしょうし、貨幣経済の社会であるからこそ、そこにイエス様のお考えをもたらすことが必要です。
イエス様、どうぞこの世にありながら貨幣経済の海におぼれず、あなたと共に歩む方法を教えてください。神様の前で豊かな者となりたいのです。 (Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ ルカ 12:13-21
(そのとき、)群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」