8/11 若い人のための日曜日の聖書  年間第19主日 ルカ 12:32-48

学生寮の仲間たちと

「チャオ、ガブリエッラ」「チャオ、マリア・グラツィア」

修道院に入会する前、イタリアで留学生活を送りました。イタリアの修道院(今、所属している会ではありません)の中にある女子学生寮にいたのですが、シスターたちも学生たちも、互いに、会うたびに、1日に何回でも、チャオと言葉を掛け合っていました。修道院中に、いつもチャオが飛び交っていたと言うことができます。気軽で、陽気なチャオと言う響きが大好きでした。

日本の修道院の中ではどうでしょう。朝誰かシスターと会ったら「おはよう」と声をかけあいますが、すでにおはようと言った姉妹に日中出会って「こんにちは」と言うことはありません。夜は、「おやすみなさい」と言いますが、何も言わないで、黙礼するかチラッと微笑むかでゆき過ぎてしまうことも多くあります。陽気なチャオが飛び交うイタリアの修道院とはだいぶ違います。

陽気、と表現しましたが、イタリア語のチャオの語源はスキアーヴォ、「奴隷」と言う意味です。
つまり会うたびに、1日何回でも、「私はあなたの奴隷です」と呼び交わしていることになります。
もちろん、どれだけこの元の表現をイタリア人が意識しているかは不明ですが、言語に染みついた背景は、色々な意味で、私たちの潜在意識の深いところで影響を与えているように思います。

少なくとも、修道院の中は、互いに(奴隷のように自分自身を与えあって)尽くす姿がよくみられましたし、そのような姉妹的生活が私に、「修道生活って素敵だなあ、私もイエス様に呼ばれないかしら」、という望みを起こさせました。

さて、今回の福音に登場する「しもべ」は、まるで奴隷のようで、イエス様は私たちに「奴隷でありなさい」と要求されていると誤解されがちです。

勤務時間もなく、「働き方改革」もなく主人に仕えなさい、と。

いえいえ、違います。イエス様は、思いがけない時に来る「人の子」のために、意識的にいつも目覚めていなさい、と仰っているのです。実際に目を覚ましているのでなく、霊的に覚醒していなさいと。奴隷であって、奴隷でない、とでも言ったらいいでしょうか。自ら選んで奴隷になる、と言ったらいいでしょうか。

私たち日本人は、政府が重要な政策として「働き方改革」を掲げなくてはならないほど、ライフワークバランスの取れないタイプの多い国民性です。これが、第二次世界大戦後の日本を発展させたのでしょうが、その弊害もまた多く見受けられることは言うまでもありません。いわば、経済的発展のための「奴隷」です。

イエス様、どうか私が、私たちが、霊的に覚醒しながらも、あなたの元で真に安らぐことができるよう助けてください。夏休みに入っている日本全体が、本当の休養を取れるよう、どうぞ助けてください。   (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ ルカ 12:32-48

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」