11/10 若い人のための日曜日の聖書  年間第32主日 ルカ20:27-38

建築中の修道院の朝やけ

昔々あるところに、神様が大好きな女の子がいました。女の子は何とかしてもっと神様に近づきたい、神様のために奉仕したいと思い、洗礼を望みました。
お母さんに許可を求めましたが、お母さんは娘がいつか修道生活を望むようになるのではないかと恐れ、「婚約者を持つか、結婚するかしたら洗礼を受けてもいいよ」と言いました。
彼女は、婚約者のふりをしてくれる人を探しました。ある青年が、彼女の思いを汲み取って、婚約者になってくれました。
彼女は無事に洗礼を受け、そして数年後に修道院に入りました。もちろん彼女の中には、婚約者になってくれた青年に対する申し訳ないと言う気持ちがありました。しかし彼女はまっすぐに神様の方向いて、進んで行きました。
やがて婚約者だった青年は、自分も神様に強く惹かれていることを感じ、司祭をこころざしました。
二人はその後ほとんど顔合わせる事はありませんでしたが、神様における強い友情で結ばれていたようです。

二人はそれぞれ神様に呼ばれた道を歩み通し、やがて年老いて第一線から引退しました。ある時、神父様になった青年、今は老司祭となったその方を、彼女の後輩であるシスターたちが訪問しました。

「何か彼女に伝える事はありませんか」と尋ねると彼は言いました。

「私より先に死なないでください、と伝えてください」。

1年後に、彼女は安らかに神様のもとに召されました。
そしてその2か月後、彼も神様に召されました。
残された者たちは言いました。「きっとシスターが神父様を呼び寄せたのよ。『天国はとってもいいところだから早くいらっしゃい』って」。

おとぎ話ではありません。実際にあったことです。

今回の聖書箇所の「死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない」という聖句は、長い間私にとってよく理解できない句でした。復活したら、夫だとか妻だとか、親子だとか、そういったこの世での関わりがすべて無になってしまう、と考えると、復活が素晴らしいことのようには思えなかったからです。

でも、この二人のストーリーに思いを馳せると、「めとることも嫁ぐこともない」がすっきりと腑に落ちます。神様によって復活させられたなら、神様の内で、私たちはこの世の関係以上に深い結びつきで結ばれるのです。

よく、修道生活や司祭の独身生活は「天国の先取り」と言われます。実際には、現実の中でもがきながら生きていると、そんなことは忘れてしまいそうです。それでは、修道生活の意味がなくなりますね。心して、「先取り」していることを味わいつつ生きたいと思います。シスター、神父様、ありがとう、大切なことを思い出させてくださって。

最後に、サドカイ派の人たちのように、あなたが復活を疑っているなら、「一応信じること」をお勧めします。だって、死ぬまで分からないのですから、復活や天国があると信じた方が、幸せに生きられる気がしませんか?     (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ ルカ 20:27-38

(そのとき、)復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。《「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」》
イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」

建築中の修道院の夜。天国の先取りのような美しさです。