2/9 若い人のための日曜日の聖書  年間第5主日 マタイ 5:13-16

ライトアップされている調布修道院のルルド

本当の暗闇を体験したことがありますか?

いえ、心の暗闇や霊的暗夜でなくて、この自然界の暗闇。

私は二度の経験があります。

一度は、ホンジュラスの山間部の小さな村の夜の集会に向かった時のこと。電気の通っていない山道をカナダ人シスターの運転する車で走ったのですが、ヘッドライトの外側は墨を流したような暗闇でした。

二度目は、3.11の夜。保護者が迎えに来られなかった高校生20名を連れて、学校から修道院までの20分ほどの距離を歩いたのですが、停電で信号機も止まった道はただ雪明りのみで、心細いことこの上もなかったです。

この二つの体験の時ほど、明かりというものをありがたく思ったことはありません。

今回の聖書箇所で、イエス様は、ご自分の話を聴いている人々に向かって、「あなた方は地の塩、世の光だ」と表現してくださっています。「そのようになりなさい」ではなく、「すでに地の塩、世の光なのだから、もっと塩気をもち、もっと光を輝かせなさい」と。

群衆の中には、善人ばかりがいたわけではないでしょう。もしかしたら、イエス様の話に聞き入っている隣の人から、こっそり財布を抜き取ったばかりの人もいたかもしれません。「お腹がすいたなあ。この話が終わったら、何か食べ物を恵んでくれるかなあ」なんて考えていた人もいたかもしれません。

それでもイエス様は「もしあなた方が良い人なら」とはおっしゃらなかったのです。ただ、「あなた方が塩気をもち、光輝くなら、見ている人は、神様はすごいなあ、と思うようになるよ」とおっしゃったのです。

善い行いが先か、信仰が先か、昔から議論されています。カトリックは、どちらかといえば「行い派」。でも、この聖書箇所は、善い行いと信仰が連環することを暗示しています。まあ、難しい議論は神学者に任せましょう。そして単純に光り輝きたい、と思いませんか?       (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ マタイ5:13-16

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」