3/29 若い人のための日曜日の聖書  四旬節第5主日 ヨハネ 11:1-45

今年の「青い花」

「咲いた、青い花!」

昨年の四旬節第3主日(3月24日)に、私は、ヨーゼフ・クフラー著の絵本『ショベルくんとあおいはな』について書きました。

ショベルカーのショベル君が建築現場で見つけた一輪の青い花を、あたかも神様が私たちを愛し、見守ってくださるように、大切に大切に育むというお話です。

そして、その当時まさに建築現場だった修道院の裏手に臨時に積み上げられた土の山に、「我が家の青い花」が咲いたのを見つけた、と書きました。

実はピンクのヒヤシンスである「我が家の青い花」を、私は臨時の山とともに崩されてしまわないように、植木鉢に移しました。

それから、ネットで「来年もヒヤシンスを咲かせる方法」を検索して、その通りにお世話し、花が終わって葉が枯れた頃、球根を掘り出して、再び掘り返されることのない安全な場所に植えました。

「来年、本当に咲くかしら」と、内心ひやひやしながら。

今月初め、「これがあの『青い花』の子どもかしら」と疑わしく思っていた葉っぱの真ん中に、つぼみを見つけました。

それからの私のiPhoneの写真といったら、毎日のように1枚は『青い花』を撮っています。

10日頃咲き始めて、今もまだ咲いています。昨年より鮮やかなピンク色です。

植物ほど、特に春先の植物ほど「復活」を強く意識させてくれるものはありません。

神様は、この人間の感性をよくご存知で、イエス様の死と復活を春にもってきたのかもしれません。

今回の福音箇所で、イエス様に呼ばれて生き返ったラザロは、当たり前のことですが、もう一度死ななければなりませんでした。おそらく、イエス様の十字架の死と復活の後であったろうと、私は祈りの中で想像します。

それは、単にこの世に生き返って姉妹たちを喜ばせるためでなく、イエス様の復活によって、ラザロも永遠のいのちに復活するためです。そしていつの日か、同じように復活させられた姉妹たちと共に、永遠のいのちを喜ぶためです。

神様、ラザロの姉妹マルタと同じように、私には復活も永遠のいのちもよくは分かっていません。ただ、あなたといっそう近くなれるということ、と理解しています。

この世には、人間の自然な傾きであるコミュニケーションや人と人との絆をあざ笑うかのように、新型コロナウイルスが蔓延しています。

ノーベル生理学・医学賞受賞者、山中伸弥さんの昨日の言葉「桜は来年も必ず帰ってきます。もし人のいのちが奪われたら、二度と帰ってきません」が心にしみました。キリスト者としては、「二度と帰ってこない」その悲しみの先に、さらに素晴らしいもの、復活が待っていることを信じて生きたいです。

復活・・・いのち・・・何が愛する人を、未来を大切にすることになるのか・・・

イエス様が、四日もとどまってからやおら姉妹たちのところに赴いた、その「四日間」を私たち人類は今、過ごしているのかもしれません。

少なくともこんなに考えさせられる四旬節をいただいていることを、主よ、感謝させてください。  (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ ヨハネ 11:1-45

《ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。》
(ラザロの)姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」
《弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。》
さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。《ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。》
マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
《マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、》
(イエスは)心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じ