4/19 若い人のための日曜日の聖書 復活節第二主日 ヨハネ20:19-31

玄関のまだ育っていない芝生に咲いた小さなパンジー。こんなふうに、ひそやかで、しかも確かな存在感をもった者でありたいものです。

「世界ではじめのクリスマスは、ユダヤのはずれのベトレヘム・・・」

この歌をご存知でしょうか。

いえ、復活をクリスマスと間違えているわけではありません。

「最初の復活祭は、静かな静かな復活祭でした」というある方のお話にはっとさせられました。

イエス様のご降誕も静かだったけれど、ご復活も確かに静かだったはずです。

気が付いたのは女性たちだけでしたから。

しかもマルコによる福音書によれば、「彼女たちは、墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。

「誰にも何も言わなかった」のに、この話が残っているのはなぜ?と気の利いた中高生なら突っ込みを入れたくなるところでしょう。

それはさておき、イエス様は、さらに弟子たちに現れて、不安におびえている彼らに「平和」を与えてくださいました。そして、運悪くそこに居合わせなかったトマスには特別、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」という言葉をかけてくださいました。

今年の復活祭。

春たけなわというのに東京教区では修道者を含めた信徒はミサにも与れず、洗礼式も行われない、という、最初の復活の朝と同じように「静かな静かな復活祭でした」。

福音宣教が「いのち」であるはずの教会で、今の「静かな静かな復活祭」が、力を溜める時であるよう、祈るばかりです。

私がこのところ心がけて過ごしているのは、まず「日常生活を大切にすること」、そして「工夫してできる方法で福音宣教をすること」です。

「静かな静かな復活祭」。

イエス様の母であられたマリア様、この静けさの中で、あなたと共に未来に向かって静かに働けるよう助けてください。

(Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ ヨハネ20:19-31

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。