5/17 若い人のための日曜日の聖書 復活節第六主日 ヨハネ14:15-21

ベビー・ラッシュ!

つい最近も同じことを書いたかもしれませんが、このところ私の周りはベビーラッシュです。と言っても、今はだれも赤ちゃんをあちこち連れ歩こうなどど思わないでしょうから、FBやmessengerで新米ママ(またはパパ)のコメントや赤ちゃんの写真を見るだけです。赤ちゃんのうちに、抱っこさせてもらえる機会があったらいいのですが。

修道院の中って、世の中と同じで、毎日色々なことがあり、ぶつかり合いあり、すれ違いあり、それでも助け合わなくてはならなくて仲直りあり・・・です。

もし生まれ変わったら・・・やっぱりもう一度シスターかもしれません。

えっ、どうせ相手がいないでしょ、ですって?

生まれ変わった時に絶世の美女で、人を惹きつけるタイプで、モテモテであったとしても(本当は経験がないので想像するだけですが)、やはりシスターかも、と思うのです。

ただ、残念なのはせっかく女性として生を受けたのに、妊娠、出産、授乳といった、女性にしかできない神様との協働ができないことです。

二兎追う者は一兎も得ず。

仕方のないことです。

今回の福音書の「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」は、以前から私にとって分かったような分からないような言葉です。

でも、これをもっと個人的な霊的体験として受け止めて言葉にした、カルメル会のシスター、三位一体のエリザベト(1880-1906)のことばは、この聖句と響きあいます。

「神は私のうちに、私は神のうちに」。

マリア様を筆頭に、妊娠した女性は、もしかしたらもっとリアルにこのことを体験できるのではないでしょうか。

自分の胎内に、自分を超える「いのち」という存在が内在する。

確かに自分の遺伝子を受け継ぎながら、自分とは別の存在、未来に開かれた存在。

 

私の属するコングレガシオン・ド・ノートルダム修道会は、2021年夏に5年に一度の総会をひらくことになっていて、そのための準備委員会はだいぶ前から仕事を始めています。

この総会のテーマは「世界のいのちが息づくために共に手を携えて」なのですが、これが公表された時、私にはあまりピンときませんでした。

この世の「いのち」ばかり追い求めていてよいのだろうか、というような疑問がありました。

しかしコロナ禍の渦中にある今、このテーマが神様によって時宜にかなって与えられた、と確信できるようになりました。

「いのち」について、コミュニケーションについて、新しい生活様式に照らした宣教について、考えていかなくてはならない時と思います。

マリア様、あなたの体験を語ってください。私が、私たちが、神様との相互内在を実感して生きていけるように。

(Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ 14:15-21

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」