「私、イエス様より母の方が好きなんです」。
まさに今朝、あるシスターから聞いた言葉。正直!
・・・私もそうかもしれません。
この言葉を私自身の中でしばらく響かせてみて、二つのことに気付きました。
ひとつは、「これは当たり前だ」ということ。
苦しんで私を産んでくれたのも、私に乳を含ませて育ててくれたのも、神様ではなく母です。もちろん、その背後に神様がいらしたとしても。
もうひとつは、「親(あるいは人間)への愛と神様への愛を比較することそのものが間違っている」ということ。
ごめんなさい、イエス様。あなたの言い方が間違っていると言っているわけではないのです。
父や母を十分に愛しながら、「時は来たら」自分自身をそこから引き離していく時、私たちは神様の方を愛することになります。時によって、人によって、引き離す苦しみはあるでしょう。それが担わなくてはならない「自分の十字架」であり、自分のいのちを失いながら得ることになる・・・。
今回の福音がこんなふうに響いてきました。
一緒に暮している姉妹って、有難いものです。ちょっとした一言が、私にとっては黙想のきっかけになりました。神様は、お母さんの方がイエス様より好き、と言ったシスターの正直さを、どんなに愛おしく思っていらっしゃるでしょう。本当は今日、「水」について書こう、と思っていたのですが、また別の機会があると思います。
これを読んでくださっている皆さん、自分の両親を、自分の子どもを「今、この時」にできる形で最大限に愛しましょう。「引き離す時」は、神様がくださるでしょうから。 (Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ マタイ 10:37-42
(そのとき、イエスは使徒たちに言われた。)「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」