6/28 若い人のための日曜日の聖書 年間第13主日 マタイ 10:37-42

元、私共の修道院の主聖堂にあり、今はカトリックつくば教会に移されているステンドグラス「聖家族」。引き離される苦しみをもっとも深く体験されたのはマリア様でしょう。

「私、イエス様より母の方が好きなんです」。

まさに今朝、あるシスターから聞いた言葉。正直!

・・・私もそうかもしれません。

この言葉を私自身の中でしばらく響かせてみて、二つのことに気付きました。

ひとつは、「これは当たり前だ」ということ。

苦しんで私を産んでくれたのも、私に乳を含ませて育ててくれたのも、神様ではなく母です。もちろん、その背後に神様がいらしたとしても。

もうひとつは、「親(あるいは人間)への愛と神様への愛を比較することそのものが間違っている」ということ。

ごめんなさい、イエス様。あなたの言い方が間違っていると言っているわけではないのです。

父や母を十分に愛しながら、「時は来たら」自分自身をそこから引き離していく時、私たちは神様の方を愛することになります。時によって、人によって、引き離す苦しみはあるでしょう。それが担わなくてはならない「自分の十字架」であり、自分のいのちを失いながら得ることになる・・・。

今回の福音がこんなふうに響いてきました。

一緒に暮している姉妹って、有難いものです。ちょっとした一言が、私にとっては黙想のきっかけになりました。神様は、お母さんの方がイエス様より好き、と言ったシスターの正直さを、どんなに愛おしく思っていらっしゃるでしょう。本当は今日、「水」について書こう、と思っていたのですが、また別の機会があると思います。

これを読んでくださっている皆さん、自分の両親を、自分の子どもを「今、この時」にできる形で最大限に愛しましょう。「引き離す時」は、神様がくださるでしょうから。 (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ マタイ 10:37-42

(そのとき、イエスは使徒たちに言われた。)「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」