7/12 若い人のための日曜日の聖書 年間第15主日 マタイ 13:1-23

1994年、カナダ、トロントの集いに出席した日本人姉妹たち。

有名な有名な「種蒔きのたとえ話」。

よく、カトリック学校の入学式に読まれます。

そして多くの場合、「だから、学校生活を通して百倍実る良い土になりましょうね」というふうに解釈される。

イエス様のおっしゃったのは、そのようなことだったのかしら?

そもそも「御言葉を聴いて悟る」、そして実を結ぶ、とはどういうことなのでしょうか。

1994年に、私たちの修道会は、シスターになって15年以内の人たちの世界的な集いをカナダのトロントで、初めて開きました。日本からは15名位の参加で、私は、シスターになって3年目でした。

その時の集会のテーマは、確か「いのちの集会」。英語で、Gathering for lifeでした。私たち日本人には、最初このテーマの意味がよく分かっていませんでした。実際に2週間ほど集い、様々な国、地域の報告をきいて、ある姉妹が言いました。「『いのちを勝ち取る集会』だったのね」。特に、内戦の記憶の生々しい中米からの報告は厳しいものでした。

それから20年以上を経て、来年、やはりカナダで開かれる予定(現時点では、予定としか言いようがありません)の修道会の総会のテーマは、英語でTogether for the life of the world。日本語では「世界のいのちが息づくために、共に手を携えて」と訳されました。

これを耳にした私の第一印象は、「なんだ20年前と大差ないではないか!」

テーマが発表され、それと相前後するタイミングで新型コロナウイルスのパンデミックという事態が起こりました。そして、「いのち」の意味が私に中でも、世界的にも変容していきました。

さてここ数日、東京の連日の感染者数の多さへの不安感と、政府や自治体の対応(あるいは不対応?)のギャップが、降りやまない豪雨の被害状況とあいまってのしかかり、私は非常な焦燥感を感じています。その中で、「医療機関が逼迫していないし、死者数が増えていないから大丈夫」との論法が、まかり通っています。裏返せば、「死者が増えてくるまで、経済優先でいきましょう」ということでしょうか。行政によるまさに「いのちの軽視」に思えて仕方ありません。

いのち。この世のいのちには、確かに終わりがあります。だれもが、いつか、何らかの原因によって、この世のいのちを終えるのです。「何らかの原因」がコロナであってはならない、ということもないでしょう。ただ、感染を拡大させないために、親しい家族にも看取られず、葬儀という気持ちの区切りをつけることも許されずに迎える死は、「人間らしい死」とは言えない気がします。

私たちシスターが、集い、掘り下げて、世界に発信していくのは、いのちそのものである方からいただいたいのちを十全に生きること。そのためには、御言葉を聴いて頭で悟るだけでなく、それを実践して、実を結ぶ方向に進まなくてはなりません。何が「石だらけの土」で、何が「茨」か、社会のレベルと私個人のレベルで、また修道会のレベルで、見極めなくてはなりません。

「死者が増えてくるまで、経済優先でいきましょう」と無策であるのは、「蛇のような賢さ」(マタイ10:16)にすら達しないと思うのですが。

(Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ マタイ 13:1-23

その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」
弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。
『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」