7/19 若い人のための日曜日の聖書 年間第16主日 マタイ 13:24-43

星の王子様の中の高慢ちきな、でも愛すべきバラ。この花を取って、ヤブガラシを巻き付けると、「ヤブガラシの棒」が完成します!

皆さんには、「天敵」がいますか?
私の天敵は、もっか「ヤブガラシ」です。
ヤブガラシも小さいうちは、結構可愛いです。
もともとブドウ科なのだそうですが、つたの葉っぱのような趣があります。
ところが放っておくと、いったい1日に何センチ伸びるのでしょうか。
あっという間に、近くの植物に巻きついて覆い隠し、その植物をダメにしてしまいます。
それで、毎年この季節から秋にかけては、私はせっせとヤブガラシ退治に勤しんでいます。

つい先日、修道院の庭でヤブガラシの棒のようなものを見つけて、抜こうと思いつかんだとたんにギャーっと悲鳴をあげてしまいました。
なんと、バラの木にヤブガラシが絡み付いて、バラの木をすっかりダメにしていたのです。
バラの葉っぱはほとんど残っていなくて、茎にヤブガラシがすっかり巻きついていたので、私は「ヤブガラシの棒だ」と思ってしまいました。(写真を撮ればよかったです!)

残っていたのは、バラのとげでした。

バラさんごめんなさい、こんなになるまで気がつかなくて。

今度は気を付けてヤブガラシに手を伸ばし、くるくるとバラの木からほどくようにして、外しました。

今週の福音箇所を読んだ時、「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」というイエス様のことばが身に沁みました。

実際には、バラからヤブガラシを外すのは早ければ早いほどよいに決まっています。でも、力まかせに引っ張っては、バラまで傷めてしまいます。

急がばまわれ。星の王子様のように、バラの木は大切にしなければなりません。

そしてさらに、人間の分際で、性急に「バラは善い木、ヤブガラシは悪い草」と決めつけないこと。

何事にも性急な私にとって、バラのとげ以上に痛い言葉でした。

「雅代、私の作った世の中は神秘と不条理に満ちている。この中にこそ、私とあなたの出会いがあるのだよ」。

祈りの中で聞こえてきたイエス様のことばです。イエス様、性急な私、性急であるがゆえに数々の失敗を重ね、まわりの人を苦しめてきた私は、どうしたらそうでなくなれるのか、分かりません。あなたの恵みが必要です。どうか、どうか懲りずに私を導いてください。    (Sr.斉藤雅代)

 

 

≪聖書箇所≫ マタイ 13:24-43

(そのとき、)イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」
それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」