今年の夏は、梅雨が長かった分、猛暑が始まったら強烈で、耐えがたかったですね。
私たちの修道院は、比較的庭が広くて緑が多いのですが、さすがに8月の中旬には中庭のタマリュウも、西側の芝生も、ルルドのイワダレ草も、一応私がお世話している小さな植え込みのミントも、強い日差しに息も絶え絶えのようでした。
普段は、係の姉妹と植木屋さんに任せっきりで、鑑賞しかしていない私も、さすがに気もそぞろになって、長いホースや散水用のノズルを求めて、カンカン照りの中、ホームセンターまで自転車を走らせました。
そして、庭がほとんど日陰になる夕方をねらって、水撒きをはじめました。
夕方とはいえ、長袖に長靴、そして重いホースをあちこち引きずるのは容易なことではありません。悔しいことに、夏休み&コロナ禍でできた時間を利用してピアノの練習をしている姉妹の「エリーゼのために」が優雅に聞こえてきます!
私の気分は、まったくもって「暑い中辛抱して働いた」ぶどう園の労働者です。
「神様、不公平じゃないですか。ピアノを弾くゆとりがあるなら、水撒きだってできるでしょうに!」
実はこう思った時には、ぶどう園の労働者のたとえ話は、ひとつも思い出さなかったのですが、今回この福音箇所を祈った時、私は本当に自分が恥ずかしくなりました。
比較じゃない。
気前のよい神様から、私には今、「水撒きの時」が与えられていて、その姉妹には「ピアノを弾く時」が与えられている。
私には今、理解できないことが多いけれど、私にとって最も必要を思われる「時」が与えられている。
それに、水撒きのおかげでよいこともありました。一本一本の草木までよく観察(鑑賞でなく)できるようになったこと。冬に植えたばかりのレモンの若木は4つ、夏ミカンの若木は2つの実を付けていました。昔からある柚子の木は、無数の小さな実を付けていて、マーマレードにされる「時」、初冬を待っています。山椒の木は、上の方がすっかり虫にやられてしまっていましたが、若いひこばえが元気に出てきて香り高い小さな葉を付けていました。百日紅は、花のいわば「第二波」で、散った後にすぐ掃除をしないと、木の下の石畳が汚れたように黒ずんでしまいます。そしてミントの大きくなったこと!
一日中働いた労働者、ずっと立ちん坊(この言葉、すでに死語かもしれませんね)をしていた労働者…神様は一本一本の草木を見るようにどちらもちゃんと心にかけていてくださいます。
この気前のよい神様を信頼して生きていきたいです。そして神様、これからもちょっとだけ不平を言うであろう私を、前もってお赦しください、とお願いしたら調子よすぎですか? (Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ マタイ20:1-16
(そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。)「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」