10/11 若い人のための日曜日の聖書 年間第28主日 マタイ 22:1-14

最初にいただいた招待状。あらためてマリア様にお捧げして、若いお二人のために祈りました。

私のダイアリーの先月の27日、日曜日の欄には、「Eさんの結婚式」と入っていました。

桜の聖母学院高校の卒業生Eさんの結婚式は、当初、4月の予定でした。

新型コロナウイルス感染症拡大のため、彼女たちはこの晴れの日を9月に延ばしました。

そして8月末・・・もっともお式に招きたかったお祖父様、お祖母様のために、再延期、しかも日時を決めない再延期との連絡が入りました。

お相手の方とはすでにお幸せな生活に入っているとはいえ、人生の門出を挫かれた思いはいかほどかと、胸が痛むと同時に、私自身、多くの高齢のシスターたちと生活を共にしているため、実のところ「結婚式に出たらその後数日は、修道院の別棟で過ごそう」と考えてもいました。

この春から感染症拡大のために、何と「できなかったこと」「できないこと」の多いことでしょう。

でも、これらが「できていた時」には、「できる」ということが当たり前で、一人ひとりとの出会いや触れ合いを本当のところ大切にしていたかなあと、思われます。

今回の福音箇所では、婚宴に招かれた人たちが、他のことを優先させる、というたとえ話が描かれています。

私もこれまでに、神様からの招きをどれだけ無駄にしてきたでしょう。たとえ話の中の誘いを無視した人や畑に行ってしまった人のように、「婚宴」が神様からの大切な招きだと気づかずに。

天の国、あるいは神の国はしばしば「宴会」や「婚宴」にたとえられますが、実生活の中では、案外見落としがちな、目立たない「お誘い」かもしれません。

神様、周りの人の欠点や失敗にばかり敏感な私です。そうではなくて、あなたからの招きにいつも敏感な者にしてください。    (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ マタイ22:1-14

(そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに)たとえを用いて語られた。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。
「王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」