私の中に深く印象に残っているひとつの出来事。
もう20年以上前だと思うのですが、TVで、カブトムシを育てて売ることを生業としていらっしゃる方が、その幼虫だか成虫だかを大量に盗まれてしまったというニュースが流れました。サクランボの枝などでもよくある盗難です。被害総額まで覚えていませんが、数十万円だったかと思います。
こういった事件の後によく見られるように、取材の方が盗まれた方にインタビューしていました。
「どのようなお気持ちですか?」
彼は、何と答えたと思いますか?
「欲しいと言ってくれれば、あげたのに」。
私は、唖然としてしまいました。
盗まれた量から察して、これは欲しいか欲しくないかの問題でなく、あきらかに計画された犯罪です。
でも、この方の心はそのようには捉えなかった。おそらく捉えられなかった。
この方は、下を向いて、悲しそうでした。
「心の貧しい人」「霊において貧しい人」。
この聖句を読む時、このカブトムシを扱っていらした方を思い出します。
そしてこのような人こそ幸いだ、というこの聖句が、例年11月1日(諸聖人の祭日)に読まれるのは、本当にキリスト教らしい「聖人」の捉え方だと思います。
カトリック教会の公認する聖人の中には確かに素晴らしい方々が目白押しです。
しかし、この世の中を変えていけるのは、隠れた聖人たちかもしれません。
このように文章にしては台無しですが、このエピソードを思い出し、私の中に「隠れた聖人になりたい」という望みが生まれてきました。
今年は、諸聖人の祭日が日曜日と重なっています。
どうぞこの望みをせめて今週一週間持ち続けることができますように。 (Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ マタイ 5:1-12
(そのとき、)イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。
あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」