11/22 若い人のための日曜日の聖書 王であるキリストの主日 マタイ 25:31-46

調布修道院の朝焼け。まもなく始まる待降節を思わせる色でした。

清く、正しく生きたい。
そして、他者のために生きたい。

いいえ、有名人の言葉ではありません。

先日、明治学園小学校から、お父様の転勤のために途中で東京に転校し、この3月に高校を卒業したと言う方から修道院に連絡がありました。
転校先は公立だったので、ずっと、宗教のお勉強をしたいと思っていたのだそうです。
私が担当させていただくことになったのですが、同じ東京とは言え、調布からは少し遠いところにお住まいです。それで、毎週一回、Zoom でお勉強を始めることになりました。
初回だけ、修道院まで来ていただいたのですが、その折に宗教のお勉強をしたい理由を聞いて驚いてしまいました。
彼女は言いました。

清く、正しく生きたい。
そして、他者のために生きたい。

なんのてらいもなく、ストレートで真実な言葉でした。

私、昔々の若い日に洗礼を目指して勉強を始めた時、どんな理由を持っていたかしら?

確かに、素晴らしいキリスト者との出会いがありました。イエス様の生き方に強く惹かれました。自分の生き方はこれでいいのかしら、と疑問に思うことがありました。

同時に、教会建築や、ステンドグラスや、音楽(とりわけパイプオルガンと聖歌!)や、当時、女性信徒が必ず被っていた白いレースのヴェールへのあこがれが優っていました。

神様は、どんな不純な動機からも、それなりの実を結ばせてくださる偉大な方ですが、彼女のようにストレートな動機をもった人を、どんなに喜ばれるでしょう。

今回の福音箇所の右側に置かれた人々は言います。

「いつあなたに・・・したでしょうか?」

イエス様は答えます。

「あなたは、周りの人に常に気付き、周りの人の中に、常に私を見ていたね」。

この人たちは、清く正しい目をもって、心の奥底で「他者のために生きたい」と思っていたに違いありません。

主よ、私はもうずいぶん生きてしまいましたが、今からでも遅くないですよね。

私も周りの人に常に気付き、周りの人の中に、常にあなたを見ながら生きたいです。

カトリック教会の暦は今週で終わります。この「年の瀬」にあたって、私を洗礼の原点に立ち返らせ、さらにあなたのみ心に添って生きる者としてください。      (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ マタイ  25:31-46

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」