12/20 若い人のための日曜日の聖書 待降節第四主日 ルカ 1:26-38

修道院に昇る朝日。毎年12月24日の朝のミサ(待降節の最後のミサ)に歌われる聖歌に「さし昇る朝日、永遠の光の輝き、あなたは正義の太陽、日のあたらない陰に生き、闇にうもれている人を照らしに来てください」という歌詞があります。

先週、修道院の敷地内で、いくつかの家具を動かさなくてはならず、お近くのサレジオ会に帰国の日を待ちながら滞在しているベトナム人の若者2人にアルバイトを頼みました。

24歳のズンさんと、31歳のトンさん。

2人で3時間くらいは必要であろうと私たちは計画していましたが、なんと1時間ちょっとですべて終わってしまいました。

しかもお二人とも細やかで、家具だけでなく、床や壁を傷つけないよう、細心の注意を払って黙々と仕事をしてくださいました。

そして、クリスマスクッキーと紅茶でちょっと休憩して、歩いて帰っていきました。

その後ろ姿を見ながら、つくづく思ったのは「若い力のすばらしさ!」

 

今回の福音で感動するのは、マリア様が心身ともに成熟した大人の女性ではなく、若い「おとめ」であったことです。

14歳か15歳でしょうか。

若いおとめだったからこそ、率直に天使に質問し、素直に神様の選びを受け入れられたのかもしれません。

若いおとめだったからこそ、先行きの不安や不安定さへの恐れよりも、神様からのお告げに忠実であることを選べたのかもしれません。

一方で、年を取るということに、よい面がたくさんあります。

しっかり考えて判断できること、考える時にそれまでの経験を活用できること、判断するにあたってどこに、だれに相談したらよいか分かっていること。

しかし、信仰の世界には、このような成熟が不必要な場合があると教えてくれるのが、このお告げのシーンです。

もしマリア様が成熟した大人の女性で、次のように考え込んでいたらどうなっていたでしょう。

「今までの私の経験から言って、このような場合の返事は・・・」

「まずは、両親に相談しなくては!」

「世間は、そして婚約者のヨセフは、私のことをどう思うかしら?」

「ヨセフが私を見捨てたら、どうやって生きていったらいいかしら?」

これでは、救いはいつまでたってもやってきませんね。

こんな年になって恥ずかしいですが、マリア様、あなたの若い日に学ばせてください。

昔から「クリスマスでなくて、苦しみます、だ」とクリスマス前の忙しさに不満だった私ですが、今年は、素直な気持ちで、様々な仕事に惜しみなく取り組みながら、ご降誕の時を迎えたいです。

最後に、有名な(古い歌ですが)「ホワイト・クリスマス」を歌ったビング・クロスビーの名言を紹介します。

クリスマスを、自分に与えられた恵みを分かち合う機会としない限り、アラスカにある全ての雪をもってしても、ホワイト・クリスマスにはならない。

私にはもう若さはないけれど、与えられた恵みはいっぱいあります。それを、まわりの人たちに分かち合えますように。   (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ ルカ 1:26-38

(そのとき、)天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。