「黙れ。この人から出て行け」
うーん、今回のイエス様はかっこいいな。
こんなふうに、この世からコロナウイルスを駆逐してくださったらいいのに。
でも、ことはそんなに単純ではありません。
雑誌『ナショナルジオグラフィック』の2月号の特集タイトルは「ウイルス」。
ネットで公開されている写真の中に、15世紀の絵画の一部分で、黒死病(ペスト)に罪びとを狙わせる天使というのがあって、興味深いなあと思いました。(ギャラリー:腸チフスのメアリーから不遇の天才医師まで「感染症、歴史の教訓」 画像20点 page16 (nikkeibp.co.jp)。
絵画の全体と作者名が分からないので断定はできませんが、罪びとだからペストに罹った、というような因果応報的な考え方が、当時のキリスト教界にあったのかもしれません。
これはもちろん、キリスト教的な考え方ではありません。
逆に、よく教会や修道院で耳にする「守られた」という表現。
もちろん個人的に「神様、私(あるいは、私の愛する人)を守ってくださって感謝です」と祈るのは当然のことです。でも、「守られた私」の背後には、たくさんの「守られなかった人」もいる、ということを忘れてはならないと思っています。特に、ここ1年、世界中を支配しているようなコロナ禍で、多くの信徒、司祭、修道者が倒れているという現実を前にして、まだ感染していない私がどうして「守られている」と言えるでしょう。
今回のイエス様、宣教を始めたばかりのイエス様はとにかくかっこいい。
ガリラヤ湖畔で4人の漁師たちを弟子にして、会堂で新しい教えを宣言し、汚れた霊にとりつかれた人を癒す・・・その言葉と行動とは、神の国の到来を力強く表しています。まわりの人々もイエス様に魅せられている様子がうかがえます。
でもこの状態って、長続きしないのですよね。
やがて人々にも弟子たちにも見捨てられて、それでもその人たちを含むすべての人を救うために十字架にかかることを拒まなかったイエス様。
このイエス様に付いていくいくのがキリスト者だとしたら、私たちは今、どのようにコロナ禍と向き合わなければならないのでしょう。言葉によって追い払うのは「若いイエス様」にお任せして、もっと根本からコロナ禍を考えること、そしてあらゆる意味で回心することが必要なのだと思います。決して希望を失わずに、でも、今の「闇」の中に沈むことも必要だ、と緊急事態宣言が伸びそうななか思いめぐらしています。
神様、どうか希望を持ち続けながら、「闇」に沈ませてください。浮かび上がるためには、一度深く潜ることが必要ですから。
そして皆様、どうぞお元気でいらしてくださいね。 (Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ マルコ1: 21-28
イエスは、安息日に(カファルナウムの)会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。