この原稿を書いている今は土曜日の午後。
今夕から明日にかけて春の嵐だそうで、時々強い風が吹いています。その風で、修道院の庭でもっとも遅い時期に咲く八重桜が見事な花吹雪。慌ててスマホのカメラを起動させながら庭に飛び出しました。
私は、木の花が好きなのですが、美しいけれど困りものなのが白木蓮と百日紅。
白木蓮は玄関先にあります。花が木に付いて凛と咲いているうちはいいのですが、落花すると茶色のゴミのよう。以前、3月25日の主のお告げの祭日に修道院でお祝い事があった時には、朝起きてまずしなくてはならないことはこの木蓮のお掃除でした。
百日紅は中庭にあり、落花をそのままにしておくと、種の部分から油が出てきて、下のインターロッキングに真っ黒なシミができてしまいます。冬になる頃には雨に洗われて元に戻るのですが、花の季節には朝夕のお掃除がかかせません。しかも、花の時期が長い!
それに引き換え、桜の最後は見事です。花びらがそれほど色あせることなく散って、やがて地面や草むらに吸収されてしまいます。花びらをそのままにしておいても、庭の手入れを怠っている、というふうには感じられません。
ご都合主義だけで書きましたが、桜の最後の見事さは、日本人が桜を愛する理由のひとつではないでしょうか。このエッセイは、一応、「若い人」が対象ですので、古い軍歌などを引用するのは気が引けますが、「見事散りましょ、国のため」という歌詞がありました。この歌詞を、ぜひ「神の国のため」と書き換えたいです。
イエス様の死と復活が、春の出来事だったことは、色々なことを3月に終わって4月に始める日本の社会にとっては、いっそう象徴的であるような気がします。もちろん、年度末と年度当初の忙しさや、場合によっては仕事環境の変わる不慣れさもあり、私も教師をしていた時には、3月の末(つまり春休みの期間)にご復活があると、ありがたい、と思っていました。今は、そうした忙しさの中に身を置いていないので、「いっそう象徴的」などど能天気なことを言っていられるのかもしれませんね。
ともかく今週は、「復活の体」という現実を弟子たちに悟らせるために魚を召し上がったイエス様や、お相伴したに違いない弟子たちと共に、「魚」を味わいましょう。「魚を食べる」という行為に示されているように、現実の中でしか私たちは復活のイエス様を体験できないし、そのみ跡に従って神の国の建設に邁進することも、現実の中でしかできないのです。
折しも今年の復活祭には、水泳の池江璃花子選手の「復活」が重なりました。そのまぶしいばかりに美しい笑顔と涙!病、という現実を乗り越えて、五輪出場の切符という現実を手にした彼女に心からのおめでとうを言いたいです。
桜の花のように覚悟を決めて、神の国のために生きていきましょう。いつか、神の国のために死んで復活させていただけるように!
(Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ ルカ 24:35-48
(そのとき、エルサレムに戻った二人の弟子は、)道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」