4/25 若い人のための日曜日の聖書 復活節第四主日  ヨハネ 10:11-18

先生方の声に導かれて、マリア像のところに遊びに来た園児たち。

ある神父様から、最近伺ったお話です。
海外留学中に、広い野原で羊の大群に出会ったそうです。
試しに神父様は「おーい」と羊に呼びかけてみました。
(この神父様、とても大きな声の方です!)
草を食んでいた羊たちは、一斉に頭を上げました。
そこで神父様は、もう一度「おーい」と叫んでみました。
すると、羊の群れは突然逃げ始めたそうです。
神父様は、私たちの「善き牧者」ですが、その羊たちの飼い主ではなかったから。

羊って、耳がよいのですね。決して強い動物でない羊にとって、飼い主の声を聴き分けることは死活問題だったからでしょうか。

母と私は、私が高校生になった頃から母が高齢になるまで、大変声が似ていました。

携帯がなかった頃ですから、私は電話をかけて来そうな友人たちに「私と母は声がそっくりだから、間違えてしゃべり出さないでね」と言っていました。実際、何人かの友人が、母と私を取り違えてしゃべり出すことがありました。

ところが不思議なもので、その当時まだ生きていた父だけは、母と私とを決して混同しないのです。家族とは、そのようなものなのかもしれません。

イエス様はよい羊飼いで、私たちのために実際いのちをかけてくださいました。ですから私たちは、何としてもイエス様の声を聴き分け、従って行かなければなりません。

雑音の多い世の中です。

また、イエス様に似せた声をもつ悪魔もいます。

イエス様、あなたの声を聴き分けることのできる耳を、あたなはすでに私にくださっています。だから、この耳を私が失わないように、別の声に惑わされないように、どうぞ導いてください。

決して命を奪い取られることのないあなたに、付いていきたいのです。   (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ ヨハネ 10:11-18

(そのとき、イエスは言われた。)「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」