5/2 若い人のための日曜日の聖書 復活節第五主日  ヨハネ 15:1-8

もう40年近くなりますが、イタリアに留学した時、驚いたことのひとつは、修道院でも一般家庭でも、食卓には常にぶどう酒が置かれ、大人も子どもも水替わりに飲む、ということでした。まさに、「テーブル・ワイン」。子どもにはもちろん、水でかなり薄めて飲ませます。水がおいしくない、ということが最大の理由だろうと推測しました。生のぶどうも干しぶどうも八百屋さんやスーパーで売っていましたが、なんとなく、ぶどうといえばぶどう酒でした。

イタリアと同じく地中海性気候のイスラエルでも、聖書を読む限り、状況は同じようです。最近ある方に勧められて入手した『マンガ聖書の時代の人々と暮らし』(シルヴィア・ガスタルディほか著、バベルプレス)の「何を、いつ、どうやって食べたの」という章には、昼食時の飲み物に関して「ミルクか薄めたぶどう酒でした」と書いてあります。

人々にとって、ぶどうはとても親しみやすい作物であり、飲み物、食べ物でした。また収穫のシーズンには、ぶどう園は村をあげての共同作業の場ともなりました。

この親しいぶどうの木が自分だ、とイエス様はおっしゃるのです。そして、天の父である神様はこのぶどうの木を手入れしてくださる農夫だと。

わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。

蔓性の植物の蔓が長く長く伸びるように、イエス様は私のところまで、二千年の時を超えて繋がってくださっている。だから私はどのような実でも結べるのです。もしかしたら、私にとっては思いがけない実りかもしれませんが。そして実を結ぶことこそが、天の父の栄光を表すことになると。

そうだとしたら(そう書いてあるのですから、もちろんそうなのですが)今回の福音は、何と私たちを勇気付けてくれることでしょう。       (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ ヨハネ 15:1-8

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」