5/16 若い人のための日曜日の聖書 主の昇天の主日  マルコ 16:15-20

レンブラントの「主の昇天」

「どっちが優先的に病院に運ばれるのですか?オリパラ選手ですか、一般の日本人ですか?」

昨年の9月から始めた、聖書百週間(旧新約聖書を、100回に分けてグループで通読し、分かち合う)も、対面とZoomを揺れ動きながら、30回に近づいてき、サムエル記上下が終わったところです。

その分かち合いの中で、この質問はあまりにもひどい、という分かち合いをした人がいました。

つい最近、TVの国会中継で耳にした質問です。私も気になっていました。ひどいことに、ネット上で問題になっていたのは、この質問そのものの是非でなく、この質問に首相がうまく答えられなかったという点でした。ということは、一般の日本人にとって、この質問は妥当なものだということでしょうか。

では、イエス様の判断基準は?

少なくとも旧約聖書の時代だったら、オリパラ選手でしょう。それは、オリパラ選手だからでなく、他国からの「お客様」だから。

ホテルも宿屋もない旧約聖書の時代、旅人をもてなすのは人間として当然の、そして大切な大切な務めでした。

アブラハムは、突然目の前に現れた3人の旅人に言います。

「ご主人様、もしよろしければ、どうか僕のところを通り過ぎて行かないでください」。 こうして彼は、旅人の足を洗い、御馳走を準備します(創世18:1-5)。

士師記に登場する「老人」も、旅のレビ人をもてなし、この人を守るために自分の若い娘までも犠牲にしようとします(士師19)。

イエス様もまた、自分に近づいてくるだれをも「隣人」として受け容れ、愛を尽くす方でした。

今回の福音箇所で、信じる者は、イエス「の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」と言われています。

実際には、イエス様を信じていても、できることは限られています。私がコロナにかかった人に手を置いたとしても、治すことができないどころか、自分も感染するのがおちでしょう。

逃げ出した3.5mのアミメニシキヘビ(連日のようにTVに画像が映ります!)を手でつかむなんてできませんし、毒を飲むのもいやです。

では、このみことばのどこに真実があるのでしょうか。

このみことばは、イエス様の生涯の総まとめのようなものです。

イエス様は、悪霊を追い出し、病人を癒し、律法を新しい言葉(解釈)で語りました。

復活されたのは、悪の象徴である蛇や毒に対する勝利と言えるでしょう。

そして、イエス様はご昇天されるにあたり、私たちにご自分の生涯をかけた使命を委ねられたのです。

だから私たちは、何かを判断するに際して、イエス様の判断基準を推し量った上で判断しなくてはなりません。また、私たちの判断、特に咄嗟の判断がイエス様から逸れないように、いつも祈り求めなくてはなりません。

オリパラ選手か、一般の日本人か。

質問した人は、首相に「一般の日本人」と答えてほしかったのでしょうか。

「〇〇ファースト」という言葉は、少し前から政治界の流行語のようですが、それでよいのでしょうか。

私には、今答えを出すことができません。

ただ、医療従事者にとってのトリアージの順位付けに、オリパラ選手か一般の日本人かという判定基準はないだろうと思います。少なくとも、政府からの指示がない限り。

ここまで来てしまった上は、無観客等どのような状況であっても、無事にオリンピック・パラリンピックが終わってほしい、この日のために長く練習をかさねてきた選手たちに最高のパフォーマンスをしてほしい、と私は願っています。

聖霊降臨を待ちわびながら。

そうそう、忘れてはならないこと。

イエス様の救いにはトリアージがありません。私たちみな、救いに招かれています。天国に、寝室逼迫もありません!

(Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ マルコ 16:15-20

(そのとき、イエスは十一人の弟子に現れて、)言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」  主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。