昔、高校で英語科の担任をしていた時、クラス日誌を英語で書くよう指導していました。高校1年生にとってはかなりの負担で、もちろん、読んで訂正して、さらに担任としての内容へのコメントや励ましなどを加えて、と「クラス日誌」の体裁を整えるこちらも大変でした。何しろ、生徒の黒ボールペンで書いた量より、こちらの赤ボールペンで書く量の方がずっと多くなるのですから。
書く内容ではなく書き方に困って、Google翻訳を使った生徒がいました。もちろん、面倒だから、という理由ではなく、彼女は本当に困ったのです。
当時のGoogle翻訳の精度は、フランス語とスペイン語のように文法構造がよく似た言語間はともかく、こと日本語に関しては申し訳ないけれどお粗末なもので、一読で彼女が、というより人が書いたものではないことは明らかでした。
あれから7年ほど。この夏の修道会総会の仕事のために、私はかなりGoogle翻訳を使いました。修道会の公用語であるフランス語、英語、日本語、スペイン語の4か国語で手紙を書く、典礼(日々の祈り)を作る等、翻訳をお願いしている時間がない時にGoogle翻訳は便利でした。日本語からの翻訳でも、必ずくどいくらいに主語を入れて、できる限り単純な文章にして、宗教用語は別の単語に一時的に置き換えると、まあまあな翻訳をしてくれます。あとは、私の(あやしげな)外国語力を使って、「この表現で大丈夫」「ここをちょっと手直しすれば大丈夫」とか、時々「入力の日本語を変更して再度挑戦」とか、判定できます。そして、置き換えていた単語を宗教用語に戻せばOK。そうそう、なぜかフランス語やスペイン語では、「私」も「あなた」もすべて男性と判定されますので、性別によって名詞や形容詞が変化する言語は要注意でした。時には、「彼女」と入力しているのに「彼」と判定されて翻訳される場合がありました。
ともかく、この年月の間に、いかにAIが発展したかを知りました。
今は、スマホの無料アプリに、手話通訳も点字変換もあります。残念ながら私はどちらもできないので、どのくらい実用的なのかは判定できませんが、きっと今は不完全でも、日々進化していくだろうと思います。
外国語でも、その他のコミュニケーションのツールにしても、しっかりと学ぶことはいかにAIが発達しようと必要でしょう。でも、「今、この人とコミュニケーションを取りたい、取らなくてはならない」という時、AIアプリは何と有難いでしょう。
今回の聖書箇所では、イエス様の前に聴覚障害のある人が連れてこられます。「手を置いてください」。
イエス様は、もちろん手を置いただけでも、いえ、手を置かなくても、この人を障がいから解放できたはずです。でも、そうはしませんでした。好奇の目にさらされないよう人込みの中から連れ出し、指を使い,舌を使って、丁寧にその人に触れ、声を掛けます。
「開け」
その瞬間に、この人の世界はなんと変わったことでしょう。
開くことで世界が変わる、ここがポイントだと思います。
もしイエス様の奇跡が、単に目が見え、耳が聞こえ、話せるようになったことのみであれば、未来の進んだ医学でも、あるいはAIでも「奇跡」を起こせるかもしれません。
そうではなくて、イエス様はこの人の世界を、そして周りの人の世界を変えてくださったのです。
そしてイエス様は、そのことに気付けない人に、奇跡の表面的現象のみを広げてほしくないから、口止めするのです。
イエス様、私もこの人と同じように開いていただかなくてはならないところがたくさんあります。日頃から祈りの中でたくさん触れていただき、たくさん声をかけていただいているのに、それでもまだ解放が必要な私です。どうぞ、これからも「開け」という言葉を、私にかけ続けてください。
≪聖書箇所≫ マルコ 7:31-37
(そのとき、)イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」