9/12 若い人のための日曜日の聖書 年間第24主日  マルコ 8:27-35

20年前、私は北九州の学校で中学2年生の担任をしていました。元気のよい42、43人の女子クラス。9.11の後、私はホームルームの時間を何回も割いて、情勢の説明をしました。事件の重大性は飲み込めるものの、政治的、社会的背景はまだ理解できない年でしたから。

アメリカの報復が次第に現実味帯びてきた頃、生徒たちに「大切な人を亡くしていたら、みなさんはどう感じていたかしら?」と尋ねてみました。

「復習してやる!」

即答した一人の生徒のあどけない顔と元気のよい声が今も目と耳に残っています。

復讐の残忍さや後々まで尾を引く悲劇性をまったく理解していない、幼い返答でした。

「先生、僕たち21世紀が戦争や紛争のない世紀になるようにって祈ったのに、無駄でしたね」。

当時、こう訴えてきた男子高校生もいました。

そう、2001年が始まった頃、平和な世紀、Pax RomanaやPax Americanaでなく、Pax mundiとなるようにと、生徒たちと祈ったのに…

「復習してやる」と叫んだ彼女も今は30代。立派な社会人となって、そんなふうに叫んだことはきっと忘れているでしょう。

しかし20年(つまり21世紀の何と1/5)が過ぎて、世界はほとんど平和の方には進んでいない。

私には、9.11の双子ビルの崩落とアフガンから撤退する米軍の飛行機い群がる人々の光景が、どうしても重なってひとつの「終末」のように思えます。

この終末の中で、私自身はイエス様を何者だと言うのでしょう。そして、このイエス様についていくためにどのような「自分の十字架」を負ったらよいのでしょう、この20年間、たいして平和に貢献できなかった私は。

どうぞ教えてください。そして、考え違いをしているペトロを叱ったように、私をも叱ってください。

 

≪聖書箇所≫ マルコ 8:27-35

(そのとき、)イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」