1/9 若い人のための日曜日の聖書 主の洗礼の主日 ルカ 3:15-16, 21-22

雪の翌日の修道院の庭

「いいなあ、こんなキラキラした瞬間を覚えていられるなんて!」

私が二十代の半ばで洗礼を受けた時、青年会にいた幼児洗礼の青年に言われた言葉です。私たち成人洗礼の者からすれば、赤ちゃんの時から恵みを注がれ、クリスチャンホームで育った幼児洗礼の方々はうらやましい限りですが、彼らには彼らなりの思いがあるようです。

「天が開ける」体験をしたことがありますか?

これは、昨年の秋に30日の霊操をしたときに、いただいた資料の中にあった質問でした。私ははじめ、昔々見たリュック・ベッソン監督の映画『ジャンヌ・ダルク』の中の雲がものすごい速さで流れていく映像などを思い出し、「そんな体験はない」と短絡的に思ってしまいました。

後で、神様と私との関係が、何にも妨害されずまっすぐになる体験、と理解しなおし、受洗の瞬間を思い起こしました。確かにあの瞬間は、「天が開ける」体験でした。言葉で表現しようがないのですが、確かに「救われた」体験で、神様とまっすぐに繋がされていただいた瞬間でした。

毎年、クリスマスの2週間後くらいにめぐってくるイエス様の洗礼の主日。

原罪なくしてお生まれになった方が、私たち人類との連帯として洗礼を体験される。その瞬間、天が開けて、父である神様の声が響きわたる。

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。

私たちも、確かに、神様の「愛する子」「心に適う者」となるように召されている、と考えるのは傲慢でしょうか。

一方で洗礼者ヨハネの謙遜を見習いながら、自分の「キラキラした瞬間」を思い起こし、イエス様のように神様の心に適う愛する子になれるよう、恵みを願って、今年の降誕節を終わりたいと思います。

 

≪聖書箇所≫ ルカ 3:15-16, 21-22

(そのとき、)民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。