1/16 若い人のための日曜日の聖書 年間第2主日 ヨハネ2:1-11

つぼみがふくらみはじめた修道院の蝋梅

田舎の結婚式に招かれたイエス様は、どんなお顔で宴を楽しみ、どんな会話をまわりの方々としていらしたのかしら。

以前から、カナの婚宴を祈るたびに、想像をめぐらしていました。

にこにこと陽気で、周りの人々と打ち解けた様子のイエス様が浮かんできます。

イエス様は笑ったか、笑わなかったか…

昔読んだウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』に、ベネディクト会士とフランシスコ会士が論争するシーンがありました。

笑いと一言で言っても、笑いの種類により、シーンにより、様々です。

私たちの修道会の創立者聖マルグリット・ブールジョワも「私たちは時として、人を嘲笑したり冷やかしたりしては、うまく冗談が言えたことを楽しむことがあります。…このような欠点に執着している間は、霊的生活の進歩を期待できません」と明言しています。

でも、彼女の友であったある神父様は、思い煩いがかさむと、「マルグリット・ブールジョワのところに行って、笑ってこよう」と腰を上げた、という記録も残っています。

マルグリットがいかに上質な笑いやユーモアに富んだ人だったかが偲ばれますし、それはとりもなおさず、イエス様がそのような方であったからに違いありません。

そこで、私の結論!

イエス様はカナの婚宴で、大いに楽しみ、大いに笑っていらしたことでしょう。婚宴こそ、神の国の先取りのはずですから。

私たちは今、冬の厳しい寒さとコロナ変異株に悩まされています。この世を見回せば、あらゆる苦しみと悲しみでいっぱいです。でも、そうであるからこそ、カナの婚宴のイエス様たちを見習って、福音的な陽気さや笑いを忘れないようにしましょう。教会暦が年間に入り、四旬節まではまだ間がある今、成人した頼もしいイエス様と親しくなるために!

そういえば、カナの婚宴でお酒が足りなくなったのは、イエス様とお弟子たちがたくさん飲んでしまったから、という笑い話を聞いたことがあります。そこで、責任を感じたマリア様が、イエス様に耳打ちしたと。さすが、「大食漢で大酒飲み」(マタイ11:9)と言われたイエス様だ、と妙に納得されます。

 

≪聖書箇所≫ ヨハネ 2:1-11

(そのとき、)三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。