「どうしてこの箇所なのかしら?」
昨年の11月1日、諸聖人の祭日、私は30日の黙想の最中でした。
この日のミサの福音朗読個所は、マタイ5章の1〜12節、有名な「心の貧しい人々は、幸いである」で始まる、明日の日曜日のルカによる福音書6章20節からの並行箇所です。
諸聖人と言えば、なんとなくきらびやかな印象 (たとえば、イタリア、ラヴェンナのキラキラしたモザイク画のように)が強かった私は、福音箇所がしみじみとした味わいのキリスト教の真髄、真福八端であることを不思議だなあと感じました。
毎年毎年この日のごミサに預かりながら、今まで気がつかなかったのですから、なんと私の感覚は鈍いのでしょう。
そして、聖人であることは、自分の貧しさに深く気づくことなのだと、改めて納得されました。
ルカの年である今年の年間第6主日の福音箇所は、「貧しい人々は、幸いである」と始まります。「心の貧しい人」とか「霊において貧しさを知る人」と訳されるマタイの表現は、ルカより深化したものとも考える人もいますし、そうではなくてルカは物質的に貧しい人こそ神様の前にいっそう謙虚であると訴えたかったと考える人もいるようです。
そのあたりは、聖書学者の方々にお任せするとして、今泣いている人、今だれかに憎まれている人こそ幸いだ、というみことばを信じたいと思います。
私の身の回りに起こっている出来事を静かに受け止めながら、同時に世界に起こっている不条理や曲解―たとえばウクライナ問題の真実はどこにあるのでしょう―を注視していきたいと思います。
主よ、どうか私の貧しい内側の目をもっともっとあなたに向けて育ててください。
≪聖書箇所≫ ルカ 6:17, 20-26
(そのとき、イエスは十二人)と一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、(来ていた。)
さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。
人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。
今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。
今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。
すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」