4/24 若い人のための日曜日の聖書 復活節第二主日 ヨハネ 20:19-31

2週間前の桜の木とは見違えるようです

あそこに猫が寝ている。ふつうは猫だと信じて疑わない。でも、疑ってみよう。もしかしたら猫型ロボットかもしれない。・・・調べるためにつれてかえって・・・慎重に解剖してみよう。でも君は、これはほんとに麻酔なのかと疑い・・・開いたおなかの中を見て、これはほんとに内臓なのかと疑うわけだ。・・・猫なら血も流れる。でも血によく似た機械油かもしれない。疑いを晴らすための証拠がまた疑われる。いわば、疑いの底が抜ける。

 

昔読んだ『知の論理』の中の一節です(野矢茂樹、「論理を行為する―疑いと研究」より)。

M学園の高校生に宗教を教えていた時に教材として使った記憶があります。

そこでは、「信じる」と言う行為は、結局のところどこかを支点にしない限り成り立たない、そしてその支点に実践的に参加することによって、私たちが言葉の意味を決定していく。

つまり、すべての疑いを晴らして何かをつかみっとって信じるのでなく、すべては「信じる」という行為の方から始まると言うことです。

 

今日の福音箇所の主人公ともいえるトマスは、「イエス様その方そのもの」を触って信じたのでしょう。

彼は、イエス様の「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」という言葉に従って、おそらくおずおずと手を伸ばし、尊い復活のお体に触れたのです。それが彼の復活のイエス様への信仰行為の第一歩でした。

疑いから信仰への飛躍は何と美しいのでしょう。

イエス様、トマスの手をあなたのお体に導いたように、私の手も導いてください。

どうか、マグダラのマリアがあなたのお体を抱きしめたように、私にもしばらくあなたを抱きしめさせてください。

あなたへの小さな信仰が、少しでも深いものとなるように。

 

≪聖書箇所≫ ヨハネ 20:19-31

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。