福音書には、お金の話が多い!
昨年秋、1人の姉妹があまりに早く御国に行っていまっために、私は修道会の財務の一端を引き受けることになりました。
西も東もわからないどころか、1円も一万円もわからないような状態から出発して、何とか1年が過ぎました。
そして気づいたのは、この仕事のお蔭で、今までと全く違う目を持つようになったことです。
経済という観点から見ると、なんと世の中の出来事は今までと違って見えることでしょう。
この目で見て気づいたのは、聖なる福音書に、結構お金の話が多いということです。
今回の福音箇所の、以前は全く訳がわからなかった箇所、「不正にまみれた富で友だちを作る」と言うこと、ここにちょっとだけ光が射してきました。
突然証文に書かれた金額が半分になってしまう-これはマーケットではいつもあり得ることです。このような波を利用してお金を紡ぎ出すことが資金の運用ですから。
大切なのは、何のためかと言うこと。
私たちシスターは清貧の誓願を立てていますが、だからといって、この世の物を全く消費しないで生きていくわけにはいきませんし、中世の修道者たちのように全て施されたもので生きていくことも不可能です。
また使ったお金であれ、いただいた寄付であれ、正しく書き留めて文化庁に提出し、修道会の本部にも報告しなくてはなりません。
金額の多少にかかわらず、きちんと報告するということが、清貧と従順の誓願につながっていると思いながら、いつも煩雑な仕事をしています。
そして、この消費社会にあって、神と富に仕えるのでなく、「神のために富を仕えさせる」とはどのようなことかと考え続けています。
だから、今回の福音箇所の「ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である」という言葉が、仕事を通じてとても胸に響くようになったことも、新しい目を持てたこことの実りです。
修道生活に入った時、このようなお仕事をいただくとは夢にも思っていませんでしたが、神様は本当に何を使ってでも、私自身を引き寄せようとしてくださると、身に染みて感じています。
神に感謝!
≪聖書箇所≫ ルカ 16:1-13
((そのとき、イエスは、弟子たちに言われた。)「《ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。》
「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」