マンマ、ママ・・・
赤ちゃんが話し始める最初の言葉に多いのは何かしら、と思ってネットで調べたら出てきた言葉です。 ある程度予測はついていましたが、「やはり」と言う思いでした。 音という観点から言えば、唇と唇を合わせてぱっと開く「ま行」は発音しやすい音。様々な言語で、母や食べ物を意味する言葉がMで始まるのは、最初に発音できる音だからかもしれません。
同時に、意味上の観点からは、生存の根源に関わる単語から赤ちゃんが覚えていく、と感じました。
では、人間が最後に口にする言葉で多いのは何なのでしょうか?
辞世の句のような公式なものでなく、本当に臨終の床で最後の最後に口にするのは? そこには、その人の生きてきた道がそのまま反映されるような気がします。私たちの修道会に、以前、少し気難しいシスターがいらっしゃいました。
様々な面で多くの才能を持ち、学校で働いた期間は生徒たちに大きな人気のあった方でした。しかし、なんでもできるだけに、こだわりも多かったのかもしれません。 ところが、高齢になりいよいよ体が動かなくなった最晩年、その方の口からは「ありがとう」の言葉しか出ませんでした。 長い間この方と関わり、介護をしていたシスターたちは本当に感動した、と聞きました。何にでも感謝できるというのは、その人の生き方であると共に、ひとつの才能であり、神様からいただく賜かもしれません。
今回の福音箇所のエピソードが強調したかったのは、「10人の内の1人」であるより、「その人はサマリア人」であったことかもしれません。他の九人は、この病気に付き物の束縛から解いてもらうために先を争って祭司のことろへ急ぎました。でもサマリア人は、自分の身に起こった奇跡が神様のみ業だと悟り、まず、神様に感謝し賛美を捧げることを優先しました。
9人が自己中心的に祭司のもとへ急いだことは、決して責められません。しかし、サマリア人の逆方向への駆け寄りは何と美しいのでしょう。
私も「神を賛美するために戻ってくる者」でありたいです。日々生かしていただいているという「奇跡」に感謝しながら。
≪聖書箇所≫ ルカ 17:11-19
イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」