10/30 若い人のための日曜日の聖書 年間第31主日 ルカ 19:1-10

「友愛の家」入口のプチ・ハローウィンです。かぼちゃだけでなく、柿も「ジャック・オ・ランタン」になってしまいました!

昨日、秋晴れの美しい日に、桜の聖母学院卒業生の姉妹が、お母様とともに修道院を訪ねてくださいました。彼女たちが中学生高校生だった頃、私は本当に厳しい教師で、よくあんなに厳しく接していたのにこうやってわざわざ訪ねてきてくれる、とちょっと感動しました。

パワハラ、セクハラ、アカハラ、カスハラ・・・際限なくハラスメントという言葉に何かが重ね合わされて増殖し、なんでもかんでもハラスメントにされてしまう現代。校則であだ名で呼びあうことが禁止される現代。「忖度」という言葉が、元の意味から外れて一人歩きしている現代。
ハラスメントと言われないように、傷つけないように、必死に忖度して・・・これってエスカレートすると、人間関係を複雑にし、イエス様が教えてくださった愛からはかえって遠くなってしまうような気がします。今日の福音書に登場するザアカイさん。かわいそうなことに「背が低かった」と描写されて、2000年もの間世界中に名を馳せています。もちろんおっしゃったのはイエス様ではないけれど、今だったらこの描写自体NGかもしれません。

でも、背が低かったゆえに、彼は「イエスを見るために」努力しました。走って先回りし、木に登る、という行為は、彼のステータスである「徴税人の頭」には、決して似つかわしいものではありませんでした。

そしてイエス様は、彼の(もしかしたら)単純な好奇心を、たった一言で回心に変えてくださったのです。

もしザアカイが背のスラリとした人で、人垣の中から苦も無くイエス様を見下ろしていたとしても、この「化学変化」は起こったかもしれません。

でもこのエピソードが私たちの心に響くのは、ルカが「金持ち」(=不正に儲けている)で「背が低い」(=徳も低い)と、当時のユダヤ人社会から後ろ指をさされそうな条件でわざわざ彼を描写しているからでしょう。

回心のチャンスは誰にでもあります。

どうかそのチャンスを無駄にしないよう、「失われた者」である私を、世界を、助けてください。

 

≪聖書箇所≫ ルカ 19:1-10

(そのとき、)イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」