11/27 若い人のための日曜日の聖書 待降節第一主日 マタイ24:37-44

待降節第一主日、カトリックつくば教会から信徒の方々の黙想会のお手伝いを頼まれて、行ってまいりました。日本人の信徒の方々が聖堂で黙想しているところに、聖堂の外で外国人の若い方々が「家畜小屋」をせっせと作っている明るい声が聞こえてきて、しかもそれが互いに少しもじゃまにならない・・・いい教会だなあと心から思いました。

さて、ちょっとだけ時間を後戻りさせて、土曜日の朝の私の大発見を、分かち合わせてください。

大発見いうと大げさですが、土曜日に終わったばかりの「C年、ルカの年」は、一年前の待降節第一主日と同じ聖書箇所「しかし、あなた方は、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」で終わる、ということ。ひとつの典礼暦年のサイクルが閉じられて、そして「A年、マタイの年」が始まると、真っ先に耳にするのは「だから、目を覚ましていなさい」。

典礼暦年の朗読サイクルは神様ではなく人が作ったものですが、こんなふうに、「年の終わりと初め」に「目を覚ましていなさい」という言葉をきかせてくださる神様に感謝しました。

神様、目を覚まして、あなたと同じものを見て、新しい一年も貧しい私をあなたに捧げさせてください。

 

≪聖書箇所≫ マタイ24:37-44
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」