12/11 若い人のための日曜日の聖書 待降節第三主日 マタイ 11:2-11

マリア像のささやかなイルミネーション

金曜日に、修道院と同じ敷地内にある幼稚園で、クリスマスの聖劇の「前座」を務めさせていただきました。音楽とお話で、保護者の皆さまに「クリスマスとは何か」を伝え、心を静めていただくこと(?)が私のミッションでした。

年長2クラスが別々に聖劇を行い、保護者は1家族2名まで。それでも、入場前の時間にはホールの前に行列ができて、開場と同時に、60名ほどがドドドっと入っていらっしゃいました。みなさんスマホや小型のビデオカメラを手に、わが子を撮影する気満々です。

それでも私が「しばらくスマホとカメラから心を離してください」と話し始めると、静かに集中して聴いてくださいました。

この話を準備しながら、ふと、気づいたことがあります。

皆さんは、子どものころのクリスマスにどんなプレゼントを願い、何が与えられたか、思い出せますか?

私は、確かに毎年もらっていたのに、ただの一つも思い出せないことに気づきました。

でも、皆さんにお子様がいらっしゃるなら、去年のプレゼントに何を買って、今年は何を準備しているか、思い出すことはたやすいでしょう。

そして、「受けるよりは与える方が幸いである」という聖句を思い出しました(使徒言行録20:35)。

もちろん、「受ける」経験を味わってこそ、「与える」経験も深まります。

では、子どものころに、何を受けたのでしょう?

クリスマスという言葉から私が思い出すのは、父と母が居間をきれいに飾ってくれたこと・・・聖歌を歌う母の美しい声・・・あったかい雰囲気・・・おいしそうな匂い・・・

本当のプレゼントは、目新しいおもちゃではなく、この「普段とはちょっと違ったぬくもり」だったのだと気づきました。

マタイ福音書が読まれる今年は、クリスマスの前に洗礼者ヨハネを十分に味わうよう、招かれています。

まさにイエス様の「前座」を務めた洗礼者ヨハネと共に、聖なるクリスマスを迎えられるよう、そして聖家族のぬくもりを十分味わえるよう、ヨハネの言葉「来るべき方はあなたですか?」と問いながら歩みたいです。

ちなみに、もしかしたらと思って、ネットで「クリスマス オーナメント 昭和」で検索したら、出てきました! モールでできたサンタさんや、紙製のろうそく、LEDでない電飾など。懐かしいです。

 

≪聖書箇所≫ マタイ 11:2-11

(そのとき、)ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』
と書いてあるのは、この人のことだ。はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」